上海一族・日本の休日

4章 いい湯だな、日本!

                                                      2008年4月
海べりの景勝地に建てられた稲取銀水荘に到着。
ホテルに一歩足を踏み入れて、まず驚いたのは、広〜いホールに敷き詰められた絨毯。
ここだけのために織られたと思われるカラフルなデザインと鮮やかな色、フカフカな踏み心地。
贅を尽くした和の世界、ゆとりある空間が広がる大ロビーに、初老の中国人夫婦は目を剥いた。
いつも秋に出掛ける中国旅行の賓館とは、まさに月とスッポン、まさに夢に描いたVIP待遇である。
逆に凄すぎて、貧乏人には身の置き所がないような、どうにも落ち着かない様子だ。

 ここの旅館は全室オーシャンビューというふれ込み出し、格安ツアーの客だからといって、裏側の崖に面した部屋を宛がわれるようなことはないだろう。
どうか私の面子を立ててくださいと、祈る気持ちで案内された部屋は・・・・・・おっ!上等上等!
やはり噂に違わぬおもてなしの名宿だった。12帖の和室畳は真新しく、壁も柱も傷ひとつない完璧さだ。おそらく、定期的に改装していることが伺われる。
窓側にはちょっと寛げる空間があって、新しい肘掛け椅子が一対ととテーブルが置かれていた。
さて問題のオーシャンビューはどうか?レースのカーテンをサッと引いてみると・・・・・・あっと息を呑む絶景!
入り江から海岸線の先に夕日が、今、静かに沈んでいく景色が自分だけのもののように広がっていた。

「お舅さん!こっち、こっち、早く早く、スゴイよ!」
「オォ〜、漂亮(美しい)漂亮!」

窓辺でしばし見蕩れる4人組。う〜ん、この旅館を選んで正解だった、品格といい、部屋の造作といい、窓外の景色といい、大いに面子を施した。あと、風呂と食事がよければ完璧である。

「さぁ、早速、ひとっ風呂行くか」

温泉には何度も来ている女房が、押入れから浴衣を取り出し、お舅さんとお姑さんに渡した。
浴衣なんて初めての体験、着方から指導しなければ、天才バカボンみたいになってしまう。
といっても、私だって着物世代ではない。
自分で着るには何とか着られる程度であるから、人に着せてやるとなるとこれで中々難しい。
お舅さんは異国体験を嬉々として楽しんでいる。

「女の人は男の着方と反対でいいんだよね?」

お舅さんの方でまだ悪戦苦闘しているのに、女房の奴がややこしい事を聞いてくる。
適当でいいとも言えず、はたと考えたが、女の着方が男の逆といわれれば、そんな気がしないこともない。

 何年か前に女房と二人で温泉旅行に行った際、大広間での食事時、仲居さんが女房の浴衣の着方が反対だと小声で教えてくれたことがあった。
私はもう着てしまったから、あとで部屋に戻ったら直すと言ったが、

「いけません、浴衣を右前に着るなんて、死んだ時だけですよ」

随分と堅い仲居さんで、腕づくで女房の手を取り、別室で直してくれた。
折角教えてくれたんだから、私もその時しっかりと学習して置けばよかったが、その場が凌げれば、こんなこと滅多にある訳じゃなしと、うろ覚えのままにしてしまったツケが見事に回ってきた。

はて、女房の言うことが正しいのか?女の着方は男の逆なんて情報、一体どこから仕入れたんだ。
まぁ、着物なんて着たこともない中国人の言うことだからな、鵜呑みには出来ないぞ!もし違っていたら、それこそいい物笑いの種である。
ここは格式の高い旅館だから、年長の私が付いていて、そんな恥ずかしい真似は絶対にさせたくないしな。

「ちょっと待ってて!確認してくるからさ」

私は廊下に出て、浴衣を着たご婦人を探した。今時の若い人は駄目だ、間違った着方をしていても、気が付かずに堂々と闊歩しているからね。
おっと、ちょうど手頃な五十絡みのご婦人が、赤布の掛かった縁台で、湯上りの体を休めている。
後ろからじゃ駄目だ、前に回ってさりげなくしっかりと胸元を盗み見た。
それに気が付いたご婦人は急いで胸元を掻き合わせ、返す刀で、この変態!という顔で、私をキッと睨んだ。
やめてよ、胸の谷間を覗き見するんなら、私だってもう少し若いの狙うよ。
違う、違う、これにはれっきとした理由があるんです。
あ〜、潤んだ目で訴えても無駄か、余計変態っぽくなって、痛くもない腹を探られそうだ。

「お〜い、着物は男も女も着方は同じだよ、うん、今確かめてきたから間違いない」

3人はやはり中国人!そんなの右だって左だって大した違いじゃないって顔をして、中国語をポンポンと繰り出す。おそらく「日本人は細かい」とでも言っていたのだろう。



 大浴場へ向かう長い廊下も、単調にならない工夫が凝らしてある。
床に敷き詰めたフカフカの特注品絨毯にも、紅葉の絵柄がチラホラと舞い、心を和ませてくれる。
お姑さんは初めて着る浴衣の、裾捌きがうまく行かず、歩き難そうで随分と苦労しているようだ。
無理もない、日本人でさえ昨今は、たとえ浴衣でも着るチャンスが少なくなった現在、観光外国人と五十歩百歩、それほど偉そうなことは言えないかも知れない。

「お姑さん、慌てないでいいから、ゆっくり行きましょう」

婿のこまやかな心遣いである。
ホントは急がせて足が縺れ、大衆の面前で派手にコケでもしたら、恥を掻くのはこっちだからだ。

 大浴場入り口までやって来た。さぁ、右と左に泣き別れだ。
紺地に男湯と女湯に染め抜かれた暖簾が、暗黙の仕切りのように、左右の入り口に掛かっている。
中国と日本はほとんどの漢字が共通しているから、お舅さんもお姑さんも説明なしに了解した。

「どのくらい入ってんの?」
「1時間くらいは掛かるだろう」

温泉に来ると、女房がいつも言うセリフである。
そう決めていても、女房は30分くらいで出てきてしまう。
折角、遥々温泉地まで来たんだから、ゆっくり浸かってのんびりすればいいと思うのだが、環境が変わると二十日鼠のように動き回る中国人の性格がそれを許さず、勝手に早く出たのに、「随分待った!」と怒るのだ。
だがここは、ちゃんとお休み処がある。
早く出てきても、ここで火照った体を冷ましていれば一石二鳥だ。
赤布が掛かった縁台がいくつもあり、野点の茶会で使うような大きな日傘が立て掛けてある。
ちょっと小粋で京都風な情緒を醸し出していて、日本初来日のお舅さんたちには堪えられないだろう。
おっ、冷たいレモン水の無料サービスもあるぞ!やっぱり名宿は気配りが違うなぁ。

「じゃぁ、あとでまたね」と一声掛け合い、それぞれの暖簾を潜った。

贅沢にスペースを使ったスリッパを脱ぐ場所、ここまで大理石を敷き詰めてあるとは、最早、勿体無いという感じさえする。。中国じゃぁ、大理石張りなんて珍しくもないが、日本ではやはり絶対の高級感が漂う。
15cmほどの段差があって、そこからは脱衣所エリアとなる。ほんと、エリアと呼べるくらい広かった。

「パ〜パ(お舅さん)!駄目、駄目、ここでスリッパを脱ぐの!」

お舅さんはB型性格丸出しで、物怖じひとつせず、さっさとスリッパのまま上がっていったのを呼び戻した。
こんな時でも上海人の面子があるようで、どうも知らないということが、恥だと思っているところが常にある。
上海でも初めて行った店など、馬鹿にされまいと肩肘を張る。
見様によっては貧民の哀しい抵抗にも受け取れるが、高級店になればなるほど見栄はエスカレート、こんなところしょっちゅう来ているというような振る舞いをする。
上海人の見栄っ張り、ここに極まれり!というところなんだろうが、まだ旅の途中を考えると笑って済ませてはいられない。

知らなきゃ知らないでいいじゃないか、ここは日本なんだし、お舅さんを知っている人なんていないよ。
知らないことを、多分そうだろうでやらない事だよ。分からないことを聞いたって誰も笑いやしないからさ。
知らないことを、さも知っているように平然とやるから問題が起きるんだ。
な〜んて、浴場入り口でコンコンと説教した訳じゃないですよ。
そう思っただけのことで、中国語が話せない私に、こんな込み入った話はとても無理、無理。
あとで女房に、この辺の心構えを、とくと言い聞かせてもらおうと思っただけ。



 お舅さんとは上海で銭湯にも行ったことがあるし、人前で裸になったり、見知らぬ人と共に浴槽に入るのだって初めてじゃない訳だから、全体の説明は省略。
日本の温泉はシャボンをつけたまま入っちゃ駄目、ましてや浴槽の中でシャンプーつけて頭を洗うなんて、上海じゃ通用するかも知れないが、日本では絶対にタブー!であることを身振り手振りで説明した。
本人は「ワカッタ、ワカッタ」と大きく頷くが、これが一番危ない。
果たして本当に分かっているのか、大いに疑問である。中へ入ったら監視の目を一層厳しくしよう。

私はパッパッと裸になり、準備万端、さぁ行こか!
ところがいつも先頭を切るお舅さんが、モジモジしてやけに時間が掛かっている。
お舅さんの目にはどこもかしこも広すぎて、どうも勝手が違うことに戸惑っているようだった。

 浴場入り口前の棚に、橙色の大小2種類のタオルが山と積まれていた。
その横に、これまた簡易髭剃りが束になって置かれている。1人1個とか1枚とかケチくさいことを言わない使い放題なんだなと思った。
以前、上海の銭湯に行った折、お舅さんが何にも持っていかなくてもいい、タオルも向こうで貸してくれるというのを真に受けて直行。
銭湯では確かに貸してはくれたが、指で摘むのも憚れる雑巾みたいな奴だったことを思い出した。
それから比べれば、天国と地獄ほどの違い。どうだ!私の面子は、天にも昇るくらい舞い上がった。
お舅さんは不思議でしょうがない?新品みたいなタオルを、タダで貸してくれる日本は、なんて豊かなんだろう。

 広過ぎるほどの大浴場は湯気で霞が掛かったようで、時折、カッ〜コンとカランの音が反響していた。
滑らないように気配りした凹凸のある大理石は、ちょっとヒンヤリした感触で、温かい湯に早く浸かりたいという思いを募らせる。

「お舅さん、ここでお湯を被って」

まずは入ってすぐのところにある掛け湯で体を流す。
海が見える片側は、全面ガラス張りの開放感。
プールと見間違うばかりに大きい大理石大浴槽。
誰もいなきゃ、童心に帰ってひと泳ぎしたいくらいだ。

チャプチャプと二人で窓際まで行き、ゆっくり体を湯に沈める。
湯は熱くもなく温くもなく、ちょうど適温に調節されていて、「フゥゥ〜」と、快感の吐息が、思わず体の芯から漏れてくる。
どうだろう、お舅さんは日本の温泉を気に入ってくれただろうか?
また身振り手振りのゼスチャーで聞くのも疲れるから、黙して語らず。しばし、気まずい空気が辺りを支配する。
ほんとの親子なら口を利かなくたって心は通じているだろうが、俺は義理だからなぁ。
何か喋らないと意思の疎通が図れないとは分かっちゃいるが、双方が言葉を解さないのだから仕方がない。
言葉の壁とは、あ〜、じれったくも面倒なものである。

5章 食は日本にあり!へつづく

2008年5月3日 次回更新まで中国ランキングのクリックよろしく。

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