上海一族・日本の休日
1章 日本へ行きたい!
| 2007年12月 来年2008年夏には、いよいよ待ちに待った北京オリンピックが開催される。 私も、もうそろそろ歳で、あちこち具合が悪くなってきた身では、北京の次のオリンピックを見られるという保証はない。そこで中国にいることだし、最初で最後の生オリンピックを見てみたいという気があった。 ところがところが、中国にいるからといってチケットが容易に手に入る訳ではなかった。 中国のオリンピック人気は、本番が近づくに連れ、加熱する一方。開会式のチケットが300万円でネットオークションに売りに出されたなんて話まで聞く。 300元(4500円)ではない、円の300万円である、まったく恐ろしい話だ。 そんな話を聞いたら、すぐに引き下がってしまうのが、私のいいところでもある。決して無理はしない。 かと言って、中国でテレビ観戦するには、何かと不都合なことは目に見えている。 チンプンカンプンの実況中継では、面白さも半減だろうし、第一、応援しようにも日本人の選手なんて、きっと画面に出てこないだろう。
それを聞きつけたお舅さんが、女房に猛烈アタックを仕掛けてきた。 8月なら孫も夏休みだし、日本に行くなら絶好のチャンス。 出来ることなら孫も一緒に連れて行きたい。 女房も、年々歳取っていく両親を見て、もう1回くらいは日本へ呼びたいと思っていたから、賛成派に回った。 さぁ、こうなると、私の立場は弱い。 上海一族三つ巴になって、掛かってこられたら、とても一人では防ぎきれない。 本当に来るとなれば、ゆっくりテレビでオリンピック観戦どころではないだろう。 第一の心配は、中国人は声が大きいことだ。通常の会話なのに、あんなに大声で話す日本人などいない。 東京は土地が高いから、住宅は大体、建築基準法を無視して、屋根がくっつくほど接近している。 下手すれば話し声も隣に筒抜けだから、年がら年中、喧嘩をしているようで、近所迷惑も甚だしい。 初来日の折、堪り兼ねて女房に注意してもらった。東京は上海と違うから、もっと静かに話しなさいと。 以来、ひそひそ話をするように変わってくれたが、日本ではそのくらいでちょうどいい。 私もイライラすることが少しは解消したが、お舅さんとお姑さんはそれが癖になり、上海に帰った後もしばらくは大声が出せなかったと後から聞いた。 それが人の迷惑顧みず、来年は孫も連れて行きたいって〜!とんでもない話だ。 義弟が離婚して3年、独身になった義弟は青春を再び謳歌し、その間、孫の面倒を一切見てきたお舅さんとお姑さん。とりわけ勉強については、かなりうるさい。 それでも小学1年生の頃はまだ良かった。出される宿題も、大のおとなならそう難しくはない。だが、今年9月に4年生になった今、とても勉強を教えられるほど甘くはなくなった。 お舅さんは国語と算数、お姑さんは英語と分担してきたが、もうレベルは出来の悪い孫にも追い抜かれている。間違ったことを平気で教えるから、孫は学校で大恥をかくに至った。 孫も孫で、一度頭にインプットされたものは、中々解除できない性質なので、これまた往生している。 成績が悪いのは家系的問題があるかも知れないのに、お舅さんなんか「誰に似てそう頭が悪いんだ!」と、幼い孫に責任を擦り付けている。 宿題もせずにゲームなんかやっていると、精神棒見たいな奴で尻を叩くは、これでもかというほどの怒鳴り声を上げる。たまに遊びに行った私が傍にいようとお構いなしだ。 孫はヒ〜ヒ〜いって泣き叫ぶ、まさに阿鼻叫喚の世界。 その一行が、東京へやってくるって〜?・・・・・あ〜ヤダヤダ、私が逃げ出したいくらいだ。 思えば、本来なら2007年の今年、再来日する筈だった。 涙のマンション内装記13章で詳しく書いたように、浴室タイルの張替えでお舅さんと対立、結局、その話はお流れになってしまった。 喧嘩したとはいえ、いつまでも根にも持つ婿ではないと高を括っていたお舅さん。はっきりとした確認をとらないまま、パスポートやその他の手続きを進めていた。 実際、私も日が経てば怒りも収まり、東京へ遊びに来てもらってもよいという気持ちにはなったのだが、春の声が聞こえ始めた頃、突然、体調を崩してしまった。 入院するほどでなくても、安静にしていなきゃならない身としては、上海台風一家がやって来ることには、目の前が暗くなるような抵抗を感じた。 そこで女房に、これこれこういう事情なので、今年は諦めてもらうよう、お舅さんに話してくれと頼んだ。 電話でそれを聞いたお舅さんは、目の前にチカチカと星が飛び、立ち眩みがするほどがっかりした。 病気なんて断る口実で、やっぱり婿はまだ根に持っているんだ!と勝手な解釈をした。 それに付けても憎きはあの2人の修理人。あいつらさえ、もっとうまく仕事をしてくれれば、こんなことにはならなかったと、自分が頼んだことも忘れて、怒りの矛先を彼らに向けた。 もうとっくに終わった工事なのに、お舅さんは収まらず、再び文句を言いに行ったというから御念が入っている。 「あんたらのお陰で、わしら日本へ行かれなくなった!どうしてくれるんだぁ〜!」 言われた方も、何を今更、という気持ちだったろう。そのために手間賃も下げたし、償いは済んでると。
諦め切れないお舅さん、訪日の夢やみがたく、今年また再燃したという訳だ。 私も、一度約束したことを履行できない、信義にもとる奴と思われたくなかったし、女房の言うようにもう1回くらい呼ばなきゃならないのなら、この際、早くても遅くても同じだと考えた。 問題は孫である甥っ子だ。 一緒に来るとなれば、更なる覚悟をしなければならない。 お舅さんは日本は静かだから十分承知しているというが、孫を叱り付ける大声が、そう簡単に矯正できるとも思えない。 おそらく家で怒鳴れないとなると、公園かなんかに連れ出して叱るだろう。 尻くらい叩くかも知れない。孫はお決まりでヒーヒー泣いたとする。 日本では中国人の剣幕が理解できないから、いい大人が本気で折檻しているように見えること請け合いだ。 そうすれば周囲で見ていた気の早い人が、幼児虐待で警察に通報するかも知れない。外国での失敗談としては、かなり面白いが、身元引受人としては甚だ迷惑なことになりかねない。 私の考え過ぎと言ってしまえばそれまでだが、思いは悪い方へ悪い方へと繋がって行くのが怖い。 甥っ子にしてもこんなチャンスは滅多にないから、外国を直に見ておくのも、これからの人生に大きなプラスになるには分かっている。 分かってはいても、滞在1〜2ヶ月の間に何が起こるか分からない騒動を考えると、私の体調が悪化しないとも限らず、中々踏み切れないでいる。 思い起こせば7年前、お舅姑さんは始めて日本の土を踏んだ。 本当はその前年に来る予定でパスポートも取り、セッセと日本渡航のビザ申請書類を集めていたのだが、招聘人である私の都合が悪かった。 その前々年に、建築業の先行きの見通しの悪さから廃業に踏み切り、その後の整理などで税金の申告額が異常に低かったのである。 招聘人としての書類の中に納税証明書があって、その時点で取るとなると、まことに都合が悪かった。 役人は書類の数字しか見ないから、招聘理由書にどんなことを書こうが、却下は明白の筈だ。 6月か7月には行きたいお舅さんは、はやる気持ちで招聘人の書類を早く送れと急がせる。 うまく中国日本大使館でビザが下りれば、その日から3ヶ月以内に出国しなければ無効となってしまうからだ。 もう少し待ってくれれば6月には、廃業した翌年の納税証明書が取れる。 それなら収入も回復して、まともな申告額の証明書が取れるからと何度も説得したが、時はもう桜が咲く時期になっていたので、とにかく、今取れる証明書で申請してみようということになった。 結果は、私の言ったとおり、惜しくもなく掠りもせず却下。 泣く泣く諦めざるを得なくなったお舅さんは、その翌年、満を持して再度渡航申請をした。その度に招聘人書類を集めるこっちも大変だった。 私が絶対駄目だというのを聞かないから、こういうことになるんだと、女房にブツブツ文句を言いながら再度集めて回り、その結果、今度は無事審査を通過して、目出度くビザが下りた。
期待というのは、黄金国ジパングでの一稼ぎを目論んでいたからである。本人は皿洗いでも何でもやる気満々だった。 成田まで出迎えに行った女房。まだ元気だったおふくろと、戦々恐々として家で待機していた私。 計算した時間通りに、遠くからキャリーケースをガラガラと引き摺る音が聞こえてきた。 「おふくろ!来たぞ!落ち着いて、落ち着いてね」 おふくろさんにとって言葉が通じない外国人に会うのは始めてである。落ち着けといっても緊張感は否が応でも膨らんでくる。 やがてそのガラガラ音が、家の前まで来てピタッと止まった。 私は私で、お舅さんたちが来日することには必ずしも賛成でなかったから、これから3ヶ月も同居することを考えると、歓迎よりも不安が先に立っていて、愛想笑いも幾分引き攣っていた。 その不安は早々に的中!玄関戸をガラガラと開けたと同時に、リビングに土足でそのまま上がってきた。 いの一番に、始めて会う母親に挨拶したかった気持ちは分かるが、土足でいきなり入ってきた暴漢のようなお舅さんに、おふくろはビックリ仰天。後ずさりして、壁に張り付いたまま動けなくなった。 おふくろさんは言葉も分からない相手と、気まずい生活をするのはまっぴら御免と、挨拶もそこそこに弟の家へ暫時引っ越していった。 さぁ、そうなると木造2階建ての1階部分はお舅さんたちの自由空間となった。 台所もある、風呂もある、トイレもある、食事が出来るリビングもある。これらすべて、誰に気を遣うこともなく独占できる、最高環境が出来上がった。 7年前は、私も今ほどお舅さんたちと仲が良くなかったから、2階にもそれらの設備があったので、用もないのに2階にはなるべく上がってきて欲しくない旨、女房に伝えた。 何でも最初が肝心、3ヶ月という長丁場、こちらの生活リズムを乱されては、ちょっとの我慢では済まないからだ。親子のコミニュケーションは、あなたが下へ降りて行けばいい。 それでも女房は喜んだ。長年、一度は日本に呼びたいという思いが叶って、肩の荷が下りたこともあっただろうが、理由は他にもあった。 家事嫌いな女房は、掃除、洗濯、食事の支度など、あわよくばお舅さんたちにやってもらおうと画策していた。 そうなれば一石二鳥、一挙両得、妻としての最低義務である煩わしさからも解放されて、東京生活をエンジョイできると目論んだ。 まったく、普段アイデアなんて出てきもしないのに、こんな時に限って、よくそういう考えが思い付くもんである。 お舅さんたちが居たって居なくたって、大したことやってないじゃないか! まもなくお舅さんが我が家の専属シェフを宣言した。 どうせ暇だし、第一、もともとお舅さんはジッとテレビなんか見ていられるタイプじゃない。 女房からの打診に、ほんの滞在御礼とばかりに快く引き受けてしまった。 おい、おい、世帯主の私に相談なしかよ。 わたしゃ、ホームグランドの日本でも、孤立を余儀なくされる悲しい運命なのか? 当然のごとく、お舅さんはオールマイティに何で作れるという訳じゃない。和食は勿論のこと、洋食も駄目、中華一辺倒である。それもお舅さん独特の薄味で、食事制限を受けている病人食のような奴だ。 私はマンション内装時に、お舅さんの家へ居候した時の悪夢が再び甦ってきた。
女房はそんなに気を遣わなくていい、なんてお気楽なことを言ってはくれるが、ハイそうですかって訳には行かない。 私だけ別なものを食べるなんて、嫌味の極致で、早く帰れと言っているように受け取られかねないからだ。 果たして、お舅さんはそんな風に思わないかも知れないが、日本人としての細やかな心遣いが仇となっている。 あぁ、初っ端からこれじゃ、滞在3ヶ月なんて到底持ちそうもない。 東京に帰ってきたというのに、また中華三昧の上海生活が始まるとは思いも寄らなかった。 女房はせっせと親孝行に励んだ。今日はデズィニーランド、明日は東京タワー、皇居に都庁にホームレス見学まで精力的に繰り出した。 私は行かない、一緒に行ける時間があっても行かない。 台風家族が居ない間だけでも、静寂に包まれた自分の時間を、精一杯満喫したかったからだ。 そんな折、浅草の三社祭に出かけた帰り、上海一族は上野のアメ横に立ち寄った。 それまでも近くのスーパーなどで、大体の日本値段を知っていたお舅さんは、その安さにビックリした。
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