2006年2月
1週間の春節休みが明けた2月6日、朝っぱらからチャイムがけたたましく何度も鳴った。
私は長年の習慣で、あさは6時頃から起きているが、女房は朝がてんで弱く、まだまだ遠い夢の中。
私が出て行ったって、中国語が話せないんだから、どうせ用が足らないと無視を決め込んでいたら、女房がざんばら髪を振り乱しながら、パジャマの上から慌てててコートを羽織り、玄関に素っ飛んでいった。
その間も何か切羽詰ったように、連続してチャイムがピ〜ン、ポ〜ンと鳴り続けていた。
「誰っ!ちょっと待って!」
チャイムを盛んに鳴らしている主は、コンクリートに反響するくぐもった声で、階下の者である事を告げた。
女房はそれでもすぐには開けず、ゆっくり防犯スコープから廊下を覗き見て確認する。
やや緩慢な動作なのは、コートのボタンを留め、手櫛で髪を直している、単なる時間稼ぎのようだ。
「今日出社してみたら、事務所が水浸しなんだけど、お宅から漏ったんじゃないのか?」
「あぁ、そうですか、別にうちは心当たりがありませんけど」
その階下の男は、とにかく見に来てくれ!天井も壁も絨毯も水浸しなんだ、家具だって濡れてしまって使い物にならないと語気を強めた。
それを聞いていた私はすぐにピンと来た。女房がシラッと心当たりがないなんていったが、実は大有りなのだ。
遡ること2日前、以前から流れが悪かった浴槽の排水が、とうとう許容範囲を超えた。
浴槽だけではない、洗面の排水も極端に流れが悪くなってしまった。
幸いな事にトイレと洗濯機は配水管が別なようで助かったが、浴槽の方はシャワーを使った湯が徐々に流れるのを待ちながらの断続使用では、この寒いのに風邪を引いてしまう。
面倒臭がり屋の女房も、いよいよこれでは生活が出来ないと判断したか、すぐにお舅さんへ電話した。
よろず相談、揉め事、何でも快く引き受けてくれるお舅さんは、大変重宝で有り難いのだが、大体キッチリと1回で直った事がない。間に合わせで、その時ちょっと直れば良しとする、大変得な性格をしている。
夜であるにも拘らず、婿はどうでも、娘可愛さで、すぐに来てくれた。
「どら、どら、こんなの簡単に直るよ。ちょっとどいてみな」
何も出来ない婿に対する嫌味とも取れるが、この場はお舅さんに任せて、完璧に直らなくても多少でも流れがよくなれば助かる。また悪くなったら、それはその時また考えればいい。
私も中国生活が長くなって、どうも日本人らしい几帳面さが希薄になって来ているようだ。
お舅さんは持ってきた蛇腹の掃除管を排水口に突っ込み、流れを堰き止めている元凶を巻き付けて取り出す作戦に出た。どうせ詰まっているのは髪の毛だろうから、これで十分勝算があると見込んだ。
ところが何度やっても、これが元凶と思えるような大物が出てこない。一所懸命手元のハンドルを回して、執念の巻き取りに苦心したが、それほどの効果は見えなかった。
それほど詰まっていなかったのか?まぁ、多少は取れたからもう大丈夫だろうと、水を流してみた。
確かにお舅さんが来る前よりは良くなったが、とても納得できる状態ではない。
「ほら〜、ちゃんと流れるようになったろう、吸い込むスピードはどこもこんなもんだよ」
そう云われると、なんだかそんな気にもなってくるが、これじゃ、すぐにまた流れが悪くなるのは目に見えている。私も食い下がるのが面倒なので、今日のところはこれで手を打とうかと思ったが、如何せん、これでは直った内に入らないと主張した。
お舅さんは、あれだけ巻取りをやっても何もなかったんだから、もう詰まっていないと言う。
だが、得心がいかない私の不満顔を見て、(細かい事をいう婿さんだ・・・・)と思いつつ、何か閃いたのか、「ちょっと待ってろ」と言い残して、外へ出て行った。
しばらくして戻ってきたら、どこで借りてきたのか、手にはゴムの吸引カップを下げていた。
日本でもお馴染みの、トイレが詰まった時に素人でも使える、柄の先にお椀型の吸盤がある奴だ。
これで力任せにバッコン!バッコンが始まった。
私は嫌な予感がした。私はここのマンション内装にも立ち会っていたからよく覚えているが、うちの浴槽にはキチンと排水管が繋がっていない。
配管を繋げるとその分浴槽が高くなって、入り辛くなるというのが表向きの理由。
ほんとはホーローの浴槽が重すぎて、所定の位置まで引っ張り込むのが精一杯、とても配管工事をする余裕がなかったのが真相なのだ。
セメントを練ったモルタルで排水溝を事前に大体作っておき、一、二の三で浴槽を持ち上げて、その上にドスンと置いてしまった。だから、当然、浴槽の底とモルタルの間に隙間がある筈だ。
私は最後まで、これでは漏ってしまうと抵抗したが、お舅さんと大工さんが強引に押し切ってしまった経緯があった。
順調に流れている時はさほど問題はないが、一旦詰まり始めたら、満杯になったモルタル排水溝からジワリジワリと溢れ出てしまうのは自明の理。
それを更にパワーアップして、吸引カップでバッコン!バッコン圧力を掛けたらどうなるか?
中国のマンションは下地に防水工事などしていないのが普通だから、もしかしたら?と不吉な予感が過ぎった。
当のお舅さんは、絶好調だ!まるで親の仇にでも巡り合ったように、力一杯バッコン!バッコンを繰り返している。今更止めたってもう遅い!まぁ、そんな理屈は私の取り越し苦労かも知れないしね。
時々中断しては、詰まりが通ったか浴槽に少し水を張り、一気に流してみる。排水口に渦を巻いて流れて行けばOK。芳しくなければ、また水飛沫を上げてバッコン!バッコンが始まる。
ひょっとして詰まっている原因は他にあるんじゃないのか?そう疑ってみるのが普通じゃないのか。
いやいや、お舅さんはそこまで考えが及ばない。やると思えばどこまでやるさ、それが男の生きる道!無理が通れば道理なんて引っ込むさ、それ行け、やれ行け、貫通はもう目前だ。
ゴムの吸引カップと格闘20分、もう歳でいい加減くたびれた頃、どうやら納得の行く貫通をみた。
だから階下への水漏れは、この時の所業としか考えられない。
それにしても去年の8月の台風で、東京の家が水害に遭い、飛んで帰ってやっと直したと思ったら、今度は上海のマンションからの水漏れ騒ぎ。私には余程水難の相でも出ているようだ。
女房は急ぎ着替えて、事務所になっている階下の部屋まで様子を見に行った。私も一緒に行こうか?と言ったが、「日本人のあんたは行かない方がいい」と止められた。
あとで弁償の話になった場合、私が日本人だとバレていると、即、金額に跳ね返ってくる事を心配しているようだ。だから、なんでも蚊帳の外。野次馬心旺盛な私にとっては、少々不満でもある。
「大した事ないよ、壁と絨毯は少し濡れていたけどね。第一、家具なんか無かったよ」
戻ってきた女房は事も無げにそう言った。話をオーバーにいうのは上海人の癖だから仕方ないが、原因はほぼそれに間違いないのだから、うちの方を先に何とかしなけりゃならないと思った。
そうしなければ何度修理しても同じこと、まったく日本じゃなくてよかったと胸を撫で下ろした。
日本だったら、すぐにでも何らかの対応をしなければ、相手方も納得しないだろうし、事は水漏れの修理よりそっちの方が何倍も大変だ。
「それでなんて言ってきたの?」
「うちの方でも調べて見ますって言って、帰ってきちゃったよ」
それで通るのか中国は?その後は、お互い管理部を介して話しているとはいえ、何も言って来ない。
女房はうちの修理が終わっても、階下の塗装や絨毯の清掃などはせず、迷惑料として何がしかのお金を払って解決しようと思っているようだ。
その時はまたまたお舅さんの出番。迷惑料は修理をした場合の金額が基準になるし、その相場も分からないので、女が行って足元を見られるより、交渉するには男の方がいいだろうと考えた。
お舅さんは浴槽を上げて配管を繋げるとなると、今より10cmほど更に高くなるが、それでいいかと私に聞く。
足の短い私は、現在でも浴槽を跨ぐのに時々縁に足を引っ掛けてしまう。それなのに、これ以上10cmも高くなっては、なんか台でも持ってこなければ風呂にも入れない。
それならいっそ浴槽を捨てちゃって、グンと低くて入り易いシャワー室に改造したらどうかという話になった。
そう言われれば、浴槽を据え付けたものの、6年の間で湯を張ったのは数回しかない。
第一にイライラしながら湯が溜まるのを待たなければならないこと、湯量が細い上海ではつい面倒臭くなる。
ついで、日本みたいに追い炊き機能がある訳じゃなし、落とし込みの湯では冬場などすぐに冷めてしまう。
そんな理由から、何も浴槽の中でシャワーを浴びる必要はないと判断、簡易的な修理では今後も不安なので、この際、浴槽を外してシャワー室に変える事にした。
お舅さんはすでに段取りを考えている。ちょうどこういう工事に手馴れている2人組を知ってるので、あいつらにやらせようと、すでに決めたようだ。
「今、春節休みで田舎帰っちゃってるけど、15日には戻ってくるから、そしたらすぐやろう」
なんだ緊急を要する事なのに、まだ10日も待たなければならないのか・・・・・・

工事施工前・・・・すでに床の大理石が沁みてきている |

いよいよ着工・・・・あぁ無情、養生もせずに、いきなり毀し始めた! |
約束通り、16日の朝にお舅さんが2人の修理人を連れてやって来た。
いかにも地方から出てきた労働者然としていて、ろくに食べていないように痩せていた。
お舅さんがあらましの説明をすると、早速、浴槽撤去の工事に掛かった。
上海バブルも崩壊の兆しを見せ始めたというのに、建設労働者はまだ忙しいらしく、この2人も勤める会社に3日間の延長休みをもらったのだという。
だから、何が何でも3日間で仕上げなければならない。短期のアルバイトで、本命会社を首になったら大変だぁ。
日本だとマンションの内装工事などをする場合、その事前準備だけでも一仕事ある。
まず管理事務所に菓子折りを下げてって、工事の日程を連絡し、その間の便宜を図ってもらえるようお願いする。
その時、日曜祭日の工事禁止や工事時間の厳守などの説明を受ける。
大抵は朝8時半〜夕方6時くらいまでであるが、大きな音を出す場合など別途連絡しなければならない。
それと工事関係者の車両が、マンション住民に迷惑が掛からないよう、きつく言い渡される。
それが終わると、工事する部屋の近隣挨拶。真上と真下、両サイドくらいは菓子折りを持って行くが、あとはキリがないので、エレベーター前に工事の日程表を貼り付け、事前通知をしておく。
いよいよ工事開始日、まずはエレベーター内部の養生。薄いベニヤ板を壁面と床に仮張りして、工事材料の搬入搬出時に傷が付かないようにする。特にうるさいマンションでは廊下やホールまで敷かなければならない。
工事が全面改装なら必要ないが、今回のように浴室だけの改造などは、他の部屋に埃が行かないよう、シート張りなどして、細かい配慮を怠らない。
ここまでやるのに、下手するとお昼まで掛かってしまう。
さて、いよいよ解体だが、これだってすべて事前通知が済み、マンション側の許可をもらっているからといっても、大きな顔してガンガン!は毀せない。
音がうるさすぎて電話も聞こえない!などの苦情が管理室に行くからである。一般住居ならともかく、階下が事務所だったりすると、直接怒鳴り込んでくる場合もある。
だから、なるべく音を抑えるよう、それこそ小さくなって仕事をする。
まぁ、ざっとこんな具合だが、中国ではこの一切をやらない。音も埃も養生もお構いなしだ。
マンションに迷惑駐車なんてする訳がない、バッグ一つ下げて電車で来るんだからね。
ただ、毀す時の騒音は日本より小さかったかな。なんたって機械なんか高くて個人では買えないから、全部ハンマーと石ノミだけで毀してたからね。
タイルとレンガを毀して、浴槽を剥きだしにしてみると、案の定、下底にはかなりの水が溜まっていた。
これじゃ、漏る訳だと得心したが、その原因であるバッコン!バッコンをやった当の本人は涼しい顔で、修理人がお昼を食べに行った隙に、その水を雑巾で絞り取っていた。
狭くて大変だったが、それでも3時頃には浴槽を外して、なんとか玄関脇まで引っ張り出した。
現場監督気分のお舅さんは、時々覗いちゃ、何か指示を飛ばしているが、修理人にとっては的を得ていないようで半ば無視されている。
その日は生憎の雨模様で、ゴム長靴を履いてきているお舅さん。今日の俺は偉いんだという顔で、堂々とそのままリビングを歩き回り、ソファに腰掛けて休んだりしている。
どうして、そういう事するかねぇ、意のままに動く?地方労働者に対しての優越感と見栄がそうさせているのかも知れないが、まったくどうしようもない義父殿だ。

監督自ら、溜まった水を絞り取る・・・・これじゃ階下に漏る訳だ! |

赤い管は給湯管・・・・これが粗悪品で、いつ破裂するか分からない |
お昼の食事に行っていた修理人が戻ってきた。女房は使い捨てコップにお茶を入れて差し出しながら
「食事するお店、すぐ分かった?」
「いや、饅頭買って食べたから、行かなかったよ」
この地方労働者のお昼は、1人饅頭が3個だったそうである。
安い庶民食堂で定食を食べても、7元(105円)〜8元(120円)は掛かるので、1個8角の饅頭なら3個買っても2.4元(35円)で済む。遥々遠い地から働きに来ている労働者のこれが実態である。
私なんか少し見習ったらいい。高いダイエット薬なんか飲むより、お昼は3個の饅頭で我慢すれば痩せられるのだ!
彼らは日雇いできているから、セメントやタイルは材料支給、毀した廃材を入れるゴミ袋まで、こっちで用意しなければならないが、一括請負に頼むより費用は安く上がる。
彼らの1日労賃は70元(1050円)だと、お舅さんが言っていた。ここのマンション内装をした時、大工さんの1日賃金が45元だったから、6年たった今、確かに賃金相場は上がったものの、驚くほどではなかった。
こういう話を聞くと、中国で暮らせる喜びがまた湧き上がってくる。
昨年の春、東京の自宅のトイレ便器の給水が漏れている事に気が付いた。便器の中の水を見ていると、僅かに波紋があって、チョロチョロと水が止まらないようだった。
私らは長期の留守をしょっちゅうしているから、気が付いた時に直して置かなければ、あとで大変な事になってしまう。そこで区が紹介する修理業者を頼んだ。
2時間後くらいにやってきた業者は、しげしげと便器を眺め、給水タンクの蓋を外して調べていた。
そしておもむろに、修理費は5万円掛かるとのたまった。
私は区が紹介する業者なら、ボルような事はなく、適正値段で修理してくれると思っていたが、甘かったようだ。
第一、彼らは私が元建築業者だった事を知らない。知ってたら幾ら何でもそんな法外な事は言わなかったろう。
勿論、その業者は断って別の業者に頼んだが、それでもうちの便器は特殊なので25000円掛かった。
もしこの業者に頼んでいたとしたら、5万円でといえば、3350元である。
今回の浴室改修工事に掛かる予算費用は、
1.修理人労賃が2人×3日×70元で420元(6300円)
2.セメントやタイルその他材料費が500元(7500円)
3.強化ガラスの前面仕切り及び引き戸が加工取り付け共で800元(12000円)
4.ゴミ片付け処分費が40元(600円)
5.お舅さんの監督、材料買出し労費がお礼の形で300元(4500円)
6.工事を終わった日に、修理人へ食事を振舞うのが慣例とかで、その費用50元(750円)
総計 2110元(31650円)である。東京の1時間くらいで終わる便器水漏れ修理よりも断然安いのだ。
もっと分かりやすく、東京で同じような工事をした場合の値段を出してみよう。
1.管理事務所、近隣住居への挨拶などの経費、5000円
2.前記の各養生費、エレベーター内部と現場のみでも25000円
3.浴槽撤去、既存タイル毀し費 30000円、日本のタイル屋は毀しはやらないので、別な人間がくる。
4.タイル工労賃20000円×3日で60000円。
5.材料費 上海で張ったものと同程度のタイルを想定して40000円
6.強化ガラスの前面仕切り及び引き戸が加工取り付け共で、推定150000円
7.ゴミ片付け処分費 これが曲者で、日本は今、産業廃棄物の処分に厳しい。
きちんとした業者を頼むと、量に関係なく2トン車1台で50000円
8.監督費及び会社経費 10%として36000円
9.消費税 5% これはしょうがない。19800円
総計 415800円である。なんと上海の13倍も掛かってしまう。あな恐ろしや・・・・・・
このうち強化ガラスの前面仕切りは、確かに中国のものは悪い。周りのステンレス枠も薄くてペラペラだし、強化ガラスたって、下手すりゃ、強化プラスチックみたいなのを持ってくる。
それでも一応同じような形に仕上げて、この値段の違いである。私なんか、もう日本に帰りたくなくなってしまう。
日本はつい先だって1位の座は明け渡したものの、まだ世界で2番目に物価の高い国なのだ。
これほど違う上海の建築物価なのに、昨今ようやく下がり始めたものの、一頃のマンション価格はどうだ!
u3万元なんて値段をよく付けられたものだと思う。
100uの2LDKで4500万円もしては、もう東京と少しも変わらない。だが、裏に回ってみれば、現場で働く労働者の賃金はそれほど上がっていず、お昼も3個の饅頭で凌いでいるのが現状だ。
これはバブルとしか言いようがなく、いずれ日本のように破綻する日が来るのは間違いないようである。
後記
私らが今直面している大問題です。発端は小さな水漏れ事件でしたが、これが意外な方向に発展していきます。
些細な意見の違いから、売り言葉に買い言葉で、呆気ない夫婦の別れとなったか?
はたまた、水漏れ階下の住人と大立ち回りか!その大事件とは一体?
それが徐々に明らかになっていく次回、12章.埃まみれの改造工事!で、またお会いいたしましょう。
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