| 2005年12月 うちのマンションから徒歩10分くらいのところに、上海体育館がある。その目と鼻の先に、外装は殆ど出来上がっていたものの、完成を見ずにそのまま4〜5年も放置されていた幽霊ビルがあった。 発展目覚しい上海にあって、工期を競うかのように次々とオープンするマンションや多目的ビルが大半を占める中、工事が途中でストップしたままというのは珍しい方だった。 旧施工法による構造上の欠陥だったのか、単に資金が続かなかったのか、どんな理由かは分からなかったが、1年ほど前にやっと解決したらしく、この幽霊ビルに突然大掛かりな改修工事が始まった。 私はここまで朽ち果てては、いずれ取り壊すだろうと予測していたから、少々意外だった。 元々30階建ての楕円形ビルだったのを、真ん中で膨らみを持たせたビヤ樽形状のビルに生まれ変わらせた。 夜には下から上、上から下へとネオンサインが縦横に走り、周囲からは煌々とした光のライトアップに照らし出されて、豪華絢爛な多目的ビルとして華々しいデビューを飾った。
続々とテナントが入り、1階から5階までの商場は主にアパレル関係で埋まった。 どの店も高級品を扱い、ブランドイメージを高めるディスプレーで華やかに飾り付けた。 だが、その華やかさとは裏腹に、平日はおろか日曜日でさえも客足は鈍く、人影も疎らで閑散とした売り場は広いだけに、妙な寒々しさが漂っている。 高級ブランドといっても、外国の有名ブランドではなく、所詮は中国の新規ブランドである。中国にある大都市の中でもトップクラスの所得を誇る上海にあっても値段が高すぎる。 まったく異常とも思える値札が平然と下げられていて、私らなど一気に買う気を殺がれてしまう。 上海人ホワイトカラー族の月収が3000元(42000円)前後、ブルーカラーが2000元(28000円)くらいが精々なのに、1着1000元もする商品など、おいそれと買えるものではない。 これほど出す気なら、いまや東京の方がよほど安く買える。なぜこんな事になってしまうのかといえば、真っ先に家賃の高騰が上げられる。その理不尽なまでの高い家賃が、すべて商品に跳ね返ってきている。 「このセーターあまり品物がよくないみたいだけど、ど〜ぉ?」 「あ〜ほんとだ、こんなのすぐ毛玉が立っちゃうョ。これで幾らなの?」 「おっと〜!800元もするぜ!」 「こんなの七浦路(庶民市場)に行けば、100元もしないよ」 こんな調子である。女房が高額な品物に手を出さないのは、ここにある。 元をただせば、それほどの価値がない商品に、寄って集って鎧(よろい)のように高額な経費を着せ掛けた値段など、まったく信用していない。 値段が高いので、そう右から左と売れる訳でもないだろうに、それでも店が何とかやっていけるのは、逆にブランド商品の利益幅が大きいともいえそう。だから女房なんか、ますます買う気にもならない。 とにかく、このリニューアルオープンした多目的ビルの船出は、かなり厳しい状況にあるようだ。
このビルの地下1階はレストラン街になっている。エスカレーターを降りたところに、まず焼きたて工房のパン屋があって、横浜にある有名な街名を付けた店名も、日本を思い起こさせて親しみが持てる。 それに中々美味い!上海にも美味しい日本風菓子パンを作る店がアチコチに出来てきたが、残念ながら我が街“徐家匯”にはまだなかったので、これは大歓迎である。 私は“あんぱん”は粒餡が最適で、あんドーナツは漉し餡(こしあん)が正統だと思っている。この辺もちゃんと心得ているのか、私好みに作られているので、すっかりファンになってしまった。 或る日、珍しく用事があって早く出掛けた女房に、帰りにそのパン屋へ寄って少し買ってきてくれるよう頼んだ。 午前10時半頃、女房から血相を変えた電話があった。 「あんた!大変だ!朝来たら昨日のパンが2元で売ってたョ!どうする?沢山買って行こうか」 「そりゃ、スゴイ!そうせい、そうせい。お姑さんや甥っ子にも上げたらええがな」 女房は意気揚々と凱旋帰宅!戦果である20個も入った大きなビニ袋を抱えていた。いくら余計に買って来いといったって、20個は少し多いだろう〜 うちの女房は面倒臭がり屋だから、普段でも1度買いに行くと余計に買い込んでくる癖がある。 女房はパンが好きでないので、もっぱら引受け手は私なのだが、いくら好物でもあんぱんをそう立て続けに3つも4つも食べては肥満に拍車を掛けるようなもの。 したがってみんな無くなるまで2〜3日掛かることもあるので、昨日のパンなんてのは全然気にしてない。 「これはいい店見つけたね、どれでも2元じゃ絶対安いよ」 普通の売値は“あんぱん”の4.5元(65円)を筆頭に、フルーツパイ風のパンなど8元(115円)もする。 上海庶民にとっては、あんぱん1個で朝食の粥や饅頭を食べてもまだお釣りがくるし、フルーツパイ風のパン1個でお昼の定食が食べられるから、決して安い値段ではない。 だが、このくらいで驚いてはいけない。日本食材専門店に置いてある“あんぱん”は6元(90円)もする。 日本人相手だから、それで通用するのかも知れないが、腹の足しにもならない1個で6元はいかにも高い。 最近、上海では他にもクリスティンとかマルコポーロなどと、外資系を連想させるパンメーカーが伸してきているが、こちらは大体3元から4元が平均価格なので、やはり中国メーカーはその辺りを分かっている。 だが、マルコポーロの“あんぱん”を除いては、正直あまり美味くない。倹約派の女房は、“あんぱん”はマルコポーロで買って、その他をここで買えばいいというが、やっぱり面倒臭い。 私とすれば、折角気に入ったパン屋を見付けたのに、早々と撤退されても困るし、どうやって店を維持していくのか野次馬根性丸出しで朝、昼、晩と時間差で様子を窺いに行った。 朝の時間帯は、当然2元の値下げパンを買うのも兼ねている。朝10時の開店に合わせて行くと、一角に専用コーナーが設けられていて、それぞれビニールパックされたパンが一山置かれていた。 私と女房は手当たり次第にトレイに乗せる。まったく貧乏人根性がいつまで経っても抜けないのが悲しい。 やはり安い匂いには敏感なのか、中国人客もやって来た。敵は名うての猛者らしく、私を押し退けるようにして漁りだした。来る客、来る客、通常価格の焼き立てパンなどに目もくれない。 あっという間に完売した。焼き立ての方も、このくらい売れてくれれば、苦労して上海に店を構えたのも報われるのにと、店主は溜息をついたかどうか?
昼下がりにも行った。客の姿はなく、売り場の小姐が手持ち無沙汰に立っていた。 各個別のケースに入った美味しそうなパンは、ギッシリと隙間なく並べられている。 どうも売れている動きがないようだ。それとも少なくなったのを随時焼いて補充しているのか? 私は折角出向いてきたのだから、あんぱん、あんドーナツ、クリームドーナツを選んだ。さりげなく翌日の2元売りには出てこないものを選んだつもりだが、、まぁ、どっちにしてもこれでは肥る訳だ。 私が女房と日本語で話しているのを見て、店のスタッフがわざわざ工房にいる日本人パン職人を連れてきた。 「こんにちは、いつもありがとうございます」 私は上海生活が長くなって、変な癖が付いて困っている。普段、どこへ行っても周囲は中国語が飛び交っている訳で、どうせ分からないからと、ついつい何でも聞き流してしまうのだ。 それでも日本語で声を掛けられれば、体が自然に反応するが、それが突然だと状況が把握できるまで、ちょっと間が空いてしまう。だから、日本人が買い物に来ているな、くらいで気にも留めなかった。 女房の方がすぐに気がついて、盛んに後ろから突っつく。食い意地の張った私は品定めに夢中で、まだ気が付かない。 「あんた、折角出て来てくれたんだから、挨拶したら?」 そう言われて、ひょいと顔を上げたら、パン職人らしい身なりの若い日本人が微笑むように立っていた。 「あっ、どうも・・・・・」 なんか事情がまだ飲み込めないので、しばし絶句。こいつ、何で俺を知っているんだ?って感じ。 女房がしきりに「何か言いなさいよ」とせっつく。
「・・・・・・・・あっ、う、うまいですよ」 ようやく正気に戻った私は、その失態を取り戻すべく、この辺界隈ではピカ一の味だとかなり持ち上げた。 お世辞抜きでも上海で十分通用するし、東京の家の近くにある商店街パン屋より寧ろ美味しいくらいだ。 オーナーは別に居るらしいが、この日本人好青年が一人でパン職人として腕をふるいながら、中国人スタッフ4〜5人にも技術指導しているという話であった。 私も、「美味しいんだから、そのうち行列が出来ますよ」と力強く励ました。 責任の無い励ましは、実に気楽である。実際に成功してくれれば、こんな嬉しいことはないが、上海での商売はそれほど甘くない。 これから、きっと一山も二山も越えなければならないだろうと思った。 夜は同じ地下1階の食堂街にオープンした、台湾小吃のタンタン麺が安くて美味そうなので、それを食べに行きがてら、ちょいと偵察した。 おっ!客が居る、居る!会社帰りかOLやサラリーマンの姿が目立つ。やはり美味いものは自然と知れ渡ってくるものなのか、店内も活気に満ちて急に明るくなったような感じさえ受けた。 まだオープンして日も浅いのに、これだけ客が来てくれればもう安心、あとは手を抜かずに品質を守っていけば常連客も掴めるんじゃないかな。 ホッと安堵の気持ちで引き上げようとしたら、店先に立っていたお知らせ黒板に目が留まった。 【PM5時30分を過ぎたら、全品2割引】 ありゃ〜、それで込んでいたのか。するってぇと、私らが朝の開店を待って買っていた2元パンは、更にその売れ残りだったて訳ぇ!なんだ!そんなに有り難がって買いに行くんじゃなかったな〜。 こうなると、お金にしぶとい上海人は朝か夜にしか買いに行かなくなる。何を隠そう私だって、すぐそう思ったくらいだから、これは間違いない。これじゃ、何のために昼間営業しているのか分からなくなってしまう。 どうだろう、客の需要はあるんだから、この際、思い切って終日全品2割値下げしたら?と考えるのは、素人の浅はかさか。きっと、当事者でないからそんな事が言えるんだろうね。 待ったなしの家賃やおっかない必要経費が大口開けて睨んでいるのが、まったく見えていない。昨今、不動産が値下がり始めたとはいえ、まだまだ強気のテナントビル。 聞くところでは、このビル地下1階の家賃相場はu400元近いとか。 ざっと見てこのパン屋の賃貸面積が70uとして、毎月28000元、それに管理費その他諸々が1割の2800元。 〆て30800元は、日本円で約41万円である。 上海と日本の平均賃金格差がまだ5倍はあるから、日本での感覚なら200万円の家賃ということになる。これではいくら何でも高過ぎて、日本だって恐らく借り手はいないだろう。 しかも、経営を続けていくには、通常セオリーで考えても、家賃の3倍は売り上げないと苦しい。 菓子パンの平均価格を5元(70円)として、なんとこの小さい店で月17000個余りを売らないといけない。日に直せば570個、これは工房でパンを焼く方もかなり忙しい。 だが、これだって客が行列して買ってくれて完売した場合の話であって、実際には夕方からの2割引、翌日の2元均一として結構な数をダンピングしている。 確かに上海中心部は人も多いし、金持ちも多いのだが、だからといって店さえ出せば売れるってものでもない。 面倒臭がり屋で欲張りな私らのように、一度に10個も買う客は少なく、大概は5個前後だから、1日におよそ100人の客を引っ張らなければならない計算になる。 まだオープン仕立てで知名度もない店は、当然、必死にならざるを得ない。・・・・・(そんなピリピリムードは感じられないけどね) 仮にこのノルマを努力で達成できたとしても、恐らく手取りとしてオーナーの懐に残るのは30万円くらいだろう。 経営者が中国人であれば、月収2万元ならまずまずの成功だが、もし日本人だとすると、これでは一介のパン職人と同じ給料になってしまう。 それでは資金を使って異国で商売を始めた意味がなく、上海にマンションも買えないし、故郷に錦を飾れる日はいつやって来るのかも分からない。 どうやら一所懸命働いても、昨今の上海は簡単には儲けさせてくれないようである。 ここは立地は悪くはないのだが、なんたって地下にあるから外からは見えず、美観の問題から看板も出せない。 いくら人通りがあっても、知らない人は素通りしてしまうので、認知されるだけでも、まだ時間が掛かりそうだ。 「アンタが心配することないよ、上海人だってお金持っている人は沢山いるから、そういう人が買いに来るョ」 女房の言う通りかもしれない。どうも上海庶民の目線で物事を見てしまう癖がついてから、私も随分レベルの低い悲観的な見方になってしまっている。イカン、イカン! まぁ、味は抜群なんだから、1日500個などと遠慮せず、1000個くらい売り切る心意気で頑張って欲しい。 くれぐれも私たちが来春上海に来た時に、撤退していたなんて事の無いよう、頼みますよ〜
どうも苦戦しているように見えたのは、ひょっとして私の取り越し苦労かと思い、更新した翌日にもう一度様子を見に行った。 誰かに頼まれた訳でもないのに、私もよほど物好きな性格らしい。 エスカレーターで降りてくる途中で、私らがお目当ての2元値下げパンの確認ができる。 はて?今日はまだ出ていない。まだ時間が早かったのかと地下商場を一回りして15分ほど時間を潰し、またパン屋に戻ってきたが、やはりいつものコーナーには1個も置いてない。 その穴埋めではないだろうが、今日は私の好物の“あんぱん”が通常4.5元のところ3元にサービスすると、店先に看板が立っていた。 女房は折角来たんだからと、5個ほどトレイに載せながら、傍にいた小姐にさりげなく聞いた。 「今日は2元パンないの?」 「ええ、昨日は全部売り切れました」 まだ頬の赤い純朴そうな小姐は、嬉しそうにそう答えた。 ジャ〜ン!・・・・オープンしてから僅か3週間、この店は存続の危機を乗り越えて、見事軌道に乗せたらしい。 20個ほどあるいつもの陳列ケースには、初登場の創作パンも数種類あって、かなり努力している様子が窺える。 今度はそういう目で周囲を見渡すと、ガラス越しに見える工房では、焼き上がったうまそうな食パンを大型オーブンから取り出していた。 結構な量だから、もしかしてホテルなどへ納入しているとしたら、更に私の心配など大きなお世話だったようだ。 やはり高い家賃でも立地のよいところは、やり方さえうまくやれば、採算が取れるという事なのだろうか? だが、日々様変わりする街並みを見て歩く限り、家賃の高騰や重圧に苦しみ、店舗が激しく代替わりしているのも事実なのである。 私のマンション近くにある某メーカーのパン屋など、最初の内こそ、珍しさも手伝って売れ行きも好調だったが、美味しくないと感じるのは日本人も中国人も同じらしく、売り上げも徐々に下降カーブを描くようになった。 最近は夜8時すぎに店の前を通っても、陳列棚には大量のパンが売れ残るようになり、売り子嬢が暇そうにしている姿が目立っている。 そうなると仕入れも調整するようになり、とうとう陳列棚は隙間だらけで、何とも薄ら寒い末期的状況になってしまった。これはもう撤退するのは時間の問題であろうと、女房と囁きあったりしている。 今年も上海の街は、商店の撤退とオープンが派手に繰り返された。きっと様々なドラマがあったに違いない。 そんな悲喜こもごもをすべて飲み込んで、もうすぐ年が暮れようとしている。 袖振り合うも多生の縁、日本の美味しい菓子パン屋さんには是非頑張って欲しい。 12月も半ばなった上海は、いまクリスマスムード一色で盛り上がっている。この店もケーキの予約が始まったし、これを追い風に一層の売り上げ増を期待すると共に、好漢パン職人の爽やかさにエールを送りたい。
後記 12月も半ばになり、いよいよ聞きしに勝る上海の冬を体験しています。風が痛いくらいに冷たくて、ちょっと外へ出るのが億劫になりますね。 廈門旅行記も4話まで快調なペースだったんですが、途中、電動自転車バトル!の完結篇を入れたら、すっかり調子が掴めなくなってしまいました。でもご心配なく、気力はありますので、近々更新できると思います。 その間の繋ぎと言う訳ではありませんが、“もうかりまっか?上海” もよろしく。 次回はこのパン屋の並びに店を構えた、日式餐庁のオープン騒動記です。 それでは、9.激戦区を制す!をお楽しみに・・・・・・・ |