| 2006年2月 2006年1月28日、この日午前0時を期して物凄い花火と爆竹が中国中で鳴り響いた。 恭喜發財、春節の始まりである。私にとって中国で正月を迎えるのは初めての経験だ。 例年、お正月は日本で迎えるものという固定観念から、年末のクリスマス時期には帰国していたが、一度くらい春節体験をしてみたい思いが高じて、今回は越年してしまった。 日本へ帰ったからといって、やらなれけばいけない事が特にある訳でもない。 強いて言えば年賀状くらいなものだが、この年賀状が曲者で、長年欠かさずやり取りしていていながら、いきなり途絶えると、まずろくな事をいわれない。 病気で入院でもしたかと、心配してくれるなら有り難いが、死んだか、夜逃げか、倒産か、なんて噂を立てられかねない。そこで今年は、上海から絵葉書に謹賀新年と書いて送った。 このインターネット時代に、なんと1週間も掛かって、なんとか三が日には届いたので面目を施した。 最近は殆んど字など書く機会がなかったのに、全部手書きだったお蔭で、しばらく手が痺れた見たいになったが、概ね好評だったので来年も上海から送ろうと思っている。 春節休みの後半、あの電動自転車バトル!でお世話になった張さんが子供を連れて遊びに来た。 わざわざ子供も一緒に連れてきたということは・・・・・・・・お目当てはお年玉である。 中国は春節のお年玉を、目一杯気張る習慣があるようで、噂では300元、500元は当たり前という話を聞いた。 もっとも渡す方にも大概子供がいるから、同じ金額が戻ってくる計算なので、若夫婦同士では単なる儀礼的な意味合いも含んでいるようだ。 だが、うちは子供がいないから、出したものが返ってくる確率は非常に低い。 上海一族には、1月28日の大晦日に年夜飯をご馳走になったので、その時早々とお年玉を渡してしまった。 本来は小学2年生の甥っ子だけでいいのだが、気は心で、お舅さん、お姑さん、義弟までも赤い袋にお年玉を入れて渡した。金額は、出しっ放しが目に見えているので、甥っ子が100元、あとのみんなは200元にした。 私は少し少ないんじゃないかと女房に言ったが、普段、小遣いも渡しているし、旅行にも連れてったりしているから、これで十分と押し切られた。義弟はおまけだから論外、文句なんか言わせないと一蹴した。 そのくらいだから、友達の子供に300元も500元も出す気は毛頭ない。幾らにするべきか?私にも相談を持ちかけられたが、中国の習慣や仕来りに疎い私では答えようがない。 結局、甥っ子と同じ100元にしようという事になったが、女房にすれば返って来ないのが見え見えなので、最後まで渡すべきか、渡さざるべきか、悩んでいたようだった。
久し振りに見た張さんは、相変わらずお淑やかで楚々としていた。昨年、上海体育館スーパーまで押し掛けて助っ人した電動自転車バトル!の剣幕などとても想像できない。 小学2年生の息子は、同学年の甥っ子より随分と落ち着いていて、背も高く大人びて見えた。 勉強も好きらしく、学年で4番の成績だと自慢げに話す張さん。下から4番目の甥っ子とはえらい違いである。 これが春節休みの宿題だと、わざわざ持参した書き取りのノートを見せてくれた。 特に英語が好きだというノートには、几帳面に書き綴ったアルファベットが並んでいた。その右側には漢字の意味が書いてあって、これも小学2年生にしては立派過ぎる字であった。 だからといって、小学校時代は親の言うこともよく聞いて、大人しくて勉強もよく出来たこういう子が、中学、高校になって豹変するのは日本でもよくある話なので、先の事は分からない。 甥っ子のように小学1年生から、すでに落ちこぼれの烙印を押された人間とでは、将来どういう風に変わって行くのか、この目でしかと見届けたい気もするが、駄目だ!それまで到底生きちゃいないだろう。 「息子さん、出来がいいみたいだから、将来が楽しみだね」 張さんは少しはにかみながら、「謝、謝」と言葉を返してくれた。。 女房は和気藹々と雑談に興じながらも、子供にお年玉を渡すタイミングを計っている。 そのうち張さんが、決して催促がましく切り出した訳でもないだろうが、お年玉の話になり、同じ上海に住む張さんの親が、今年は2000元もくれたのだと誇らしげに言った。 さぁ、困った女房!そんな話を聞いて100元は渡せなくなってしまった。 そのままズルズルと時間が過ぎ、そろそろ帰るというので、「それじゃ、帰る前に外で食事を一緒にしましょう」と、予め私と相談済みだった、例の日本餐庁へ誘った。
百貨店や高級餐庁などは開いていたが、庶民レベルの店は地方出稼ぎ者を多く雇用している所為か、従業員がみんな帰省していては店を開けることも出来ず、休業している店が結構あった。 高級店と庶民店の中間を行く、ビヤ樽ビルの日本餐庁は果たしてやっているのか?そんな心配をしながらやって来たが、春節休みも終わりに近づいたせいか、日式餐庁に限らずどこの店も開いていた。 夕方5時頃の比較的暇な時間帯だったからか、店内はガランとして客は誰もいなかった。配膳小姐の「歓迎光臨!」の声がやけに響く。 女房は片方がソファになっている席を、今日はお客さんである張さんに勧め、私らは反対側の木椅子へ座った。 張さんは日本食が始めてのようで、メニューを見ても皆目見当が付かず、女房に任せた。 女房は折角の機会だから、なるべく日本色豊かなものを味わってもらいたいと思い、メニューを追う。 結局、私が旨いと言っていた天丼なら中国にはないものだし、それが好かろうと、メニューの写真を張さんに見せて、天ぷらがどういうものか説明した。 張さんは聞いてもよく分からない風だったが、それでいいと頷いたので、私と張さん親子が天丼スペシャル、勧めた本人は天ぷらが好きじゃないので、野菜炒め定食を頼んだ。 それだけでは接待としてテーブルが寂しいから、私がケチケチするなと釘を刺して置いた言いつけ通り、焼肉と揚げ豆腐、それに韓国チヂミも追加した。 さっきから辺りを見回しいるが、今までとはちょっと違う雰囲気がする。第一に大堂経理の兄ちゃんの姿が見えないし、配膳小姐もメンバーが総入れ替えしたように変わっている。 私がファンだった、例の彫の深い顔立ちをした小姐も姿を消していた。残念、楽しみが一つ減ったか。 オーナーは私が厨房を背にしていたので気が付かなかったようだが、しきりに振り向きながらキョロキョロしているのを見て、急ぎ挨拶に来た。 驚いたことに1ヶ月近く見なかったら、すっかりスリムになっちゃって、別人のようだった。 「すごい痩せたね、大丈夫なの?」 「1ヶ月で5kg痩せましたよ」 オーナーは胃の辺りを押さえる仕草をして顔を歪め、経営が上手くいっていないことを強調した。 目の奥にはすでに諦めの色が浮かんでいる。撤退も視野に入れているようだ。 「どぉ、春節は休んだの?」 「いえいえ、休みませんよ、だけど29日と30日は良かったけど、あとはダメ、ダメ」 1月29日は中国の元旦にあたり、多くの店が休む中、必死に営業を続けたらしい。休んでも遊ばしても、店の家賃は1日2270元(34000円)容赦なく掛かる。勿体無くて、とても休んでなんかいられないのだろう。 「まだ2ヶ月なんだから仕方ないよ、これから暖かくなれば人出も違って来るしさぁ、頑張んなよ」 相当凹んでいるオーナーに、私はそんな励ましの言葉しか出てこなかった。 客がいないので隣りのテーブルに移り、オーナーの積もり積もった嘆きを聞くことにした。 「さくらが欲しいですよ、店に人がいないと、お客さん誰も入って来ない」 オーナーはそう言うと、苦々しい顔で、通路に面した全面ガラスを顎でしゃくり上げた。 確かに客とすれば色々な意味合いで、客が入っていないと店に入り辛いという事はある。 この店は不味いから客が入っていないんだと、敬遠してしまう人もいるだろうし、値段が高い所為だと勝手に判断する人もいるだろう。入る入らないはお客の自由なのだから仕方ない。
それでもトントンで収まっていれば先の希望も持てるが、毎月数万元の赤字を補填しているのだそうだ。 これがボディブローのように効いてきて、ジワリジワリと弱気に拍車を掛け、更に追い込まれて行く。 加えてこの地下食堂街も、マクドナルドを始め、全店フルオープンした。 分かっていた事とはいえ、影響はかなり大きく、少ない客をお互いで食い合っている状態だ。当てにしていた地下鉄4号線に続く地下通路も開通したが、それほど客の流れは増えていない。 元々一つ手前の徐家匯駅は乗降客が多いが、上海体育館駅は極端に少ない。 1日改札口に立って、自ら人の流れと人数を調べれば分かった筈なのだが、もう後の祭り、賃貸4年の契約を交わしているのだそうだ。 勿論、努力の甲斐なく閉店するとなれば、途中解約も出来るが、家賃の2ヶ月分を入れた敷金が戻ってこなくなる。合わせて14万元(210万円)だから、中国物価を考えたらこれも簡単には諦められない。 ビルを所有する大金持ちはますます肥り、小金持ちは高い家賃に汲々としながら小金を稼ぐ社会構図が、上海にもすっかり定着してしまったようだ。 だが、上海バブルもはっきりと崩壊の兆しを見せ始め、マンションなどの不動産価格が中心部でも3割は下がった。こういうものは一旦坂道を転がり始めると、途中で止めるのは中々難しい。 私は最悪5割近くまで下がるのではないかと思っているが、こればっかりは人間の浅知恵で推し量れないところもあるから、断定こそ出来ないものの、いずれにしても不動産が下がれば、家賃相場も下がって当然だろう。 さすれば、この先、日式餐庁のオーナーだって、今よりは楽になる可能性だってある。 誰だって明日の事は分からない。まして中国のことだ、取り巻く周囲の環境だって、いつ自分に利するよう変わってくれるかも分からない。 ひょっとしてここで商売を始めてホントに良かった、なんて言う日が来るかも知れない。 これから暖かくなれば、体育館もイベントが多くなるだろうし、競技場だってサッカーの試合なんかやるんじゃないかな?大丈夫、そう悪いことばっかりは続かないよ。 まぁ、そんな話をくどくど並べて、励ましたように思う。 テーブルに並べられた天丼を食べる張さん親子、どうも口に合わないようだ。 張さんはこれも上げる、あれも上げると、女房の茶碗に天ぷらを強引に載せてしまう。隣りの息子は、天ぷらを散々引っくり返したりして遊んでいる。 単品で頼んだ三品は割と食べ易かったのか、ほとんどなくなったが、どうも日本料理に良い印象は持たなかったようで、恐らくこの先も、張さんは自分の金では食べに行くことはないだろうと思った。 気になっていたお年玉はどうしたのかと女房に聞いたら、さっき私がオーナーと話している時に渡したと言った。金額は当初決めた100元のままで、少なくてケチだと思われたって別に構わないと言い加えた。 日本語のまったく分からない張さんだから、幾ら小声とは言っても、本人を目の前にしては大胆過ぎないか。 こんな癖がついてしまっては、日本へ帰ってから思わぬ失敗を為出(しで)かしそうで、ちょっと怖くもあった。 清算を終えて店を出ようとした時、オーナーが見送りに出てきてくれた。 頑張ってね!と声を掛け、しっかり握手しながら、姿が見えない大堂経理の兄ちゃんの事を聞いてみた。 オーナーはちょっと詰まって口篭りながら、まだ春節休みから戻ってきてないと答えた。 私は咄嗟に解雇されたなと感じた。日式餐庁にも経費節減のリストラが3ヶ月目にして始まったようだ。 春節前に見た、あの寂しそうな立ち姿が最後だったのか、と思うと、ちょっと可哀想な気がしてきた。 2006年2月14日、バレンタインデー。 街には真っ赤なバラの花束を持つ人や、バラ一輪の気は心プレゼントを路上で売る人達の声が響いた。 この日、上海体育館でまた大きなイベントがあった。 大きなイベントが二つ重なった日式餐庁は、夕方から閉店の夜10時まで、お客が途切れることなく続いて、夜の営業だけで250人を捌き、10000元を売り上げた。勿論、開店以来の大商いである。 駄目だと思ったこの場所でも、もう少し辛抱すれば客足が伸びてきそうな感触を掴んだようだ。 福建の若きオーナーは、青菜に塩だったついこの前までの落ち込みが、まるで嘘だったように吹っ切れて、大きな壁を一つ乗り越えた自信さえ覗かせている。 試練は人間を一回り大きくするようだ。なんと、ここを軌道に乗せたら、もう一店、別の場所に店を出したいと、頬を紅潮させて夢を語った。若いって事は嫉妬するほど羨ましい。 「その時は、お祝いに生花を送るからね」 オーナーは本当に嬉しそうだった。希望をエネルギーに変えていく福建人の底力を垣間見た気がした。 私らはもうすぐ帰国するが、一つ気になる心配事がなくなったような気がした。 「暖かくなったらまた戻ってくるからさ、いやだよ!その時もう店が無くなったりしてたら」 「大丈夫、そんなことはない!頑張りますよ」 ドンと胸を叩いたオーナーの顔には、戦う商売人の意気込みが感じられた。健闘を祈りたい・・・・・・
後記 日式餐庁オープン騒動記シリーズは、取り合えず終わりますが、この先も追いかけて行きたいと思っています。 皆さんには全5話の長丁場をお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。 また別の話で近々にもお会い出来ればと思っています。
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