国際結婚奮闘記

10.新年早々の葬送

  第一部 逝く年くる年

 国際結婚に理解のあった母が逝った。
高齢ながら異文化に偏見がなかった母が居なくなってしまった。

最後を看取ったのは息子の私でもなく、割と近くに住んでいた弟連でもなく、上海生まれの中国人である私の女房だった。

今わの際の母にとって以外だったかも知れないが、図った訳でもないので、これは勘弁して貰うしかない。まさか家族は勿論、看護婦さんも担当医師も、こんなに早く逝くとは
思ってもいなかったのだから・・・・・・・

 2001年11月末、恒例である秋の上海滞在も2ヶ月近くなり、そろそろ帰り支度をしなければと考えていた矢先、珍しく東京の弟から電話があった。国際電話は驚くほど高いものと決めて掛かっている弟にとっては、清水の舞台から飛び降りるくらいだったろう。
滅多にあろう筈がない電話があった事で、瞬時に良からぬ知らせではないかと不安が脳裏を過ぎる。

「婆ちゃんの具合が良くない。医者は相当進んだ癌だと言っている・・・・・・」

心臓の鼓動がドッキン!案の定、不安は的中した。いつかはこういう日が来ると漠然と覚悟はしていたものの、いざ現実となってみると実感がない。
何となく安手のTVドラマでも見ているような他人事のようにも思える。
折り返し、急ぎ東京の老母に電話をしてみた。弟の話ではまだ本人は知らないとの事だったから、極力悟られぬよう普段と同じトーンでさり気無く様子を尋ねてみた。

「体の調子が悪いんだってぇ、大丈夫かい?」
「うん・・・・・大した事はないけど、ちょっとネェ・・・・・・」
「なるべく早く帰るようにするから、頑張ってよ・・・・・」
「悪いネェ〜、そうしてくれるかい・・・・・」

イカン、すっかり気弱になっていた。2ヶ月前に上海へ出掛ける時の様子とは全く違う。

いつもの留守番役を「年取ったって猫よりマシだョ」と口癖のように言いつつ、「心配しないで行っといで」と明るく送り出してくれた老母の姿がつい昨日のように思い出された。
意気消沈としている私をみて、愛妻が実にアッケラカンと言い放つ。

「しょうがナイヨ、人間早かれ遅かれ(いつも逆に言う)いつかは死ぬョ。順番だョ!順番!」

(あぁ〜国が違うとこんなものか?それじゃぁ慰めにも何もなりゃせんじゃないの〜・・・・・

「ワタシ、お義母さんが寝たきりになっても、食事と洗濯ぐらいはヤルけど他は面倒看られないからネ〜」

先手を打たれた。以前からの宣言通り再度確認の言い回しである。(分かった、分かった!何遍も言うんじゃねぇョ、端からアンタにやって欲しいなどと思っとりゃせんわい!)
 
 それから2日後、慌しく帰国した。

我が家に帰り着いてみると、いつもと同じように老母の出迎えがあり、見た目それほど悪いようには感じられない。毎度待っていたように長旅を労うコーヒーを入れてくれる。インスタントではあるが老母の心尽くしで、これがウマイ。
いつもならここでホッと一息なのだが、今回は事情が違う。あれこれ元気付けようとする励ましの言葉も空回りし、何処か空々しく宙をさまよう。
最近食欲が無くなったと、心持ち寂しげな表情をのぞかせた老母の体が一回り小さくなったのを見て、
やはり現実の事なのかと冷たい汗が背中を伝わる。
片や嫁さんは「お義母さん大丈夫〜〜?」の一言を残して、2階への階段を軽やかに上っていった。

 4日後、掛かり付けの医師に紹介して貰った大病院に入院することになった。再度の精密検査と言う名目で勘の良い老母には気を配る。
前日の晩、私はこれから起こる様々な問題に思いを巡らせていた。自分の運命をまだ知らない老母への対応や、これからの闘病を支える看病介護。この際何でもかんでも長男である私におっつけられてなるものか、いつも兄貴にお任せで済ませてきた弟連の顔も目に浮かぶ。
それを知ってか知らずか、傍らでパソコン相手に中国株の整理に熱中しているノー天気女房が、人の気持ちを逆撫でするかのように、ついでの如く呟いた。

「ワタシも病院行くの〜〜」・・・・・・その不用意な一言がカチンときた。

女房からしてこれだ!孫と間違われるほど歳が離れた義母とはいえ、仮にも5年もの間一つ屋根の下で暮らした仲ではないか!少しは世話にもなったろう、少なくも嫌な思いはさせなかった筈だ。

「行きたくなきゃ行かんでもイイ。なんなら上海に帰っていてもいいぜ。これから見舞い客や親戚も大勢来るのに、そんな調子で仏頂面されてたら俺のメンツが無い!」

バチッと言ってやった。多くは望まないがこんな時こそ、せめて足を引っ張る真似はして欲しくない。これでは推して知るべし、私の時も思い遣られると余計な心配までしてしまった。

「そんなつもりで言ったんじゃないョ〜・・・・・」
さすがに今回は事が事だけに怒涛の反論は無かった。私だってそういつも甘い顔はしていられないのだ。

 1週間の検査入院だった。この時までは本人も至って元気で、好きなタバコを吸う為、わざわざ5Fから1Fの喫煙室までヒョコヒョコ出歩いていた。目が離せないヤンチャな老母の姿はこのあたりまでだった。
心配したケセラセラの弟連も、さすがに血は水よりも濃かった。毎日仕事帰りに病院へ寄ってくれて、私の取り越し苦労だったかと安堵の思いでありました。
そんな時、担当医師に呼び出され検査結果を告げられた。

「かなり進行しています。ここまで来ると治療の方法はありません。抗癌剤も辛いだけなので使わない方がいいでしょう。あと2〜3ヶ月だと思います・・・・・・」

ガ〜ン!今あんなに元気なのに、そんなに早いのか。脳天を強かに叩かれたようなショックだった。胸の断層写真を見せられて、医師に事細か説明されても心此処にあらず上の空。
本人の希望を聞いてこのまま入院していても良いし、自宅へ戻っても良いとの話であったが、恐らく聞くまでも無いだろう。そりゃぁ帰りたいに決まっている。
隠していても何れ本人も気付くので、病院の基本姿勢は医師から本人への癌告知がなされるらしく、「退院前には私から説明します」と言ってくれた。
有り難い、とても家族の口から言えそうも無い。
傍で一緒に聞いていた女房もいつに無く神妙な面持ち。
病室に戻ると、呼び出された私達が何を言われたのか、老母はつとに気を揉んでいたらしく急かすように聞いた。

「なんて言ってた?」
「うん、退院してもいいって・・・・・」
「フ〜ン やっぱり大したこと無かったんだ。良かった、良かった」

何か言わねばと思いつつも、母親を欺いているようで次の言葉が出てこなかった。

 12月半ば、1週間の入院生活を終えて退院。約束通り担当医師から前日に本人へ癌告知がなされていたが、あと1年か2年という希望を持たせた告知だったらしい。今すぐでないことが救いだったのか、いい歳をして醜態を晒したくなかったのか、割と冷静だったので家族としては一先ずホッと胸を撫で下ろした。

「どうだい?そこの喫茶店でも行って美味しいコーヒーでも飲もうか?」

この時はまだ病院近くの喫茶店まで、自分の足で歩いて行けたのに、家へ戻ってきてから日増しに病状が悪化していった。極端に食欲が落ち、起きているのも大儀らしくリビングでタバコを吸う姿も少なくなった。
この頃からどういう心境の変化か、女房が盛んに「お義母さん可哀想・・・・・」と言い始めた。
殊勝にも何か食べたい物は無いかと聞いては買い物に走ったり、決して上手とは言えない粥を作ったり、老母の好きな焼き芋を焼いてやったりの心遣いを見せるようになった。
クリスマスを迎える頃は殆ど寝たきりになって、忙しい息遣いが如何にも苦しそうに見える。

「婆ちゃん、もうギリギリだよ。入院した方がいいョ」
「大丈夫、寝ていればそんなに苦しくないから。頑張って何とか正月はここで越したいんだョ〜」

本人も今度入院したら、もうここへは戻ってこられないのが、薄々分かっていたのかも知れない。私もここまで来たら何とか本人の希望を叶えて上げたいと、病院の医師とも密接に連絡をとり、苦しみや痛みの始まった症状に合う薬を度々貰いに行った。
退院して家に戻ってきても弟連は頻繁に見舞いに来た。50歳近い弟の嫁さんが年長として仕切り、その娘と見間違われる女房と巧く連携を取って、末期の風呂へも入れてくれて最後の親孝行に努めてくれた。

「あ〜気持ちいい〜、これで思い残すことはないわ〜・・・」

こんな時息子とはいえ、如何にも男はだらしの無いもので、細々した配慮はやはり女性には敵わない。

 年の瀬になると容体は更に悪化、事態はいよいよ深刻になり、起き上がるのも難儀になってトイレにも行けなくなった。だからと言ってオムツの交換まで若い女房にやってくれとは言えない。それが元で喧嘩でも始まったら、婆ちゃんにとって今まさに人生の終焉という時に、これ以上ない惨い仕打ちになってしまう。
子供として親が力尽き弱っていく姿を見るのが、これほど辛いものだと思わなかった。
他に人を頼る訳にもいかず意を決して「俺がやってやるョ」と手を出すと、婆ちゃんの「情けないネ〜」・・・・・哀しい声と共に嗚咽が返ってきた。
以心伝心という言葉がある。私ら夫婦にそれが当てはまるとは思っていなかったし、露ほども期待もしていなかったが・・・・・「明日からワタシがやってやるョ、大丈夫だョ」
女房のその言葉に思わず熱いものが、胸の底から込み上げてくる。まるで私ら夫婦に欠けていたものを、老母が最後の最後に命を賭して教えてくれているようだった。
 
 大晦日には毎年楽しみにしていた紅白歌合戦を見る気力も失われていた。
喋ると疲れるのか話すことも少なくなり、消え入る蝋燭の炎が最後に一瞬パッと明るく輝いて燃え尽きる ・・・・・そんな姿に似ていると感じた。

「この分じゃぁとても1月一杯は無理だネェ〜」

自分の事は自分が一番良く分かるのか、虫が知らせるのか、妙に吹っ切れた言葉を呟いた。

 年も明けて三日、最後の気力を振り絞り、お雑煮の汁を啜る老母の姿は、年を越せたという安堵と共に一種の壮絶さが漂う。
最早これまで、もうこれ以上最後の願いも聞けない!

「明日から病院が始まるから入院しようョ」         

「・・・・・・・わかったョ・・・・・じゃぁ月曜日にしょう・・・・・」

ここまで来て又押し切られてしまった。5日6日が土日に掛かるので、月曜日とは7日の事である。いざとなれば救急車を呼ぼうと私も腹を括った。
明日いよいよ入院という6日の夜、枕元に二人の嫁を交互に呼んで形見分けをしていた。
一回り小さくなった顔から吐く息も絶え絶えで、痩せ細った手を戦慄かせ一つ一つネックレスや指輪を渡していた。高価な物などあろう筈もないが、老母にすればせめてもの感謝の気持ちだったのだろう。

「イェランちゃん、ありがとうね〜・・・・時々は思い出してね〜・・・・・」

開け放しの部屋から出てきた女房の目が赤く潤んでいた。人前で涙を見せるのが嫌だったのだろう、そのまま2階へ駆け上がっていった。

続いて私たち兄弟3人が雁首を揃えると、「おまえ達の事はきっと守ってやるからネェ〜」
「ホントに頼むぜ〜・・・・・」空しく乾いた笑いが兄弟から漏れて、後は言葉にならず、それが精一杯だった。

 翌朝もうギリギリの限界を超え、痛がって起き上がることも出来なくなっていた。家の前に横付けした車まで行けそうもない。
                                                    
「救急車呼ぼうか?」                                       

今まで他人様の手を煩わせるのを極力嫌がっていた老母が、以外にも呼んでくれという。
病院に出掛ける前、最後にコーヒーでも一緒に啜って、思いっきり大好きなタバコを吸わせてやりたいと思っていたのに、もうそれも叶わなくなった。
消防署に電話して救急車を待つ間、せめてタバコだけでもと思い「最後に吸うかい?」と声を掛けると大きく頷いた。
横になったまま息を喘がせ、震える手に挟んだタバコに火を付けてやった。
これが本当に最後のタバコになった。
10分ほどで救急車到着。さすが手馴れた救命士の扱いで、難なくストレッチャ−に移し変え、疾風のように去って行く。

「ひとり一緒に乗っていっても良いですか〜」救命士が「どうぞ」と頷く。
「おまえ先に行ってくれ!俺、戸締りしてあとからすぐ行くから!」

無言で頷いた愛妻が、少し離れた商店街の真中に留められた救急車まで「待ってェ〜」と金切り声をあげて追いかけて行った。
車中で救命士に問われたそうである。「お孫さんですか?」
口篭もる女房に、生きるか死ぬか瀬戸際の老母が震える声で、「長〜男の嫁です〜・・・」

 病院で緊急の手当てを受けた老母は幾分持ち直した。
話す声もしっかりしてきたので一安心したが、看護婦さんに呼ばれ、「容体が思わしくないので、家族の誰かは24時間付いていて下さい」・・・・・・ウン?只ならぬ気配。
私は「エッ!今日からですか?」と問い返してしまった。そんなところまで来ているのか・・・・・
兎に角、夕方まで私が付いている事にして一旦女房は家へ返した。
喉が渇いたと言うので吸い口でお茶を飲ませるが、もう水物も下りていかないらしく食道の入り口に溜まって苦しそう。

「兄さんに会いたい・・・・・電話してくれるかい・・・・」

今まで頑なに見舞い客を断り、親戚にも知らせずに来たのに・・・・・・それを聞いていよいよXデーは近いのかと背筋に悪寒が走った。。
夕方、仕事を持つ三男の嫁が来てくれた。事情を話し夜の9時に交代する事にして、私も一旦引き上げる事にした。

「今日、私が泊まってもイイョ」

すっかり心を入れ替えた?カミさんは自発的にしかも率先して志願してくれた。私は今夜親戚中に電話しなければならないので申し出はありがい。
頃合を見計らって片っ端から親戚に電話。「何で今まで黙ってた!」とお叱りも多々あり、受話器を持ちながら盛んに頭を下げる。それを尻目に女房は9時の交代に間に合うよう、厚手のコートにパソコンまで引っさげて出掛けて行った。

 その頃病院では、次男三男とその嫁が婆ちゃんのベッドの周りに集まり、「明日車椅子に乗ってタバコを吸いに下まで行こうね」などと話していたそうだ。
そろそろ消灯の時間も近くなり、4人部屋であることを気にした婆ちゃんは、かすれた声で「もう遅いから帰りな」と諭すように呟く。
「又明日来るからネ」ひとりひとり老母の手を握り、何となく後ろ髪を引かれつつ、消灯の9時少し前に病室を後にした。
まだ正月松の内、冷気が身に凍みる夜更けを愛用の自転車で急ぐカミさん。ピッタリ9時に病院に着くや、3人と夜間出入口でバッタリ出会った。

「あら、イェランちゃん!ご苦労さん。お義母さんは大丈夫ョ、今、落ち着いているから」

三男の嫁さんが明るく声を掛けた。寒がり屋の女房もエスキモーまがいの完全武装でニッコリ笑った。10分ほど、これからの付き添いローテーションについて立ち話をして皆と別れ、5階の病室へ上がっていった。

 今日入院したばかりの病室前がいやに騒がしい。看護婦さんが慌しく医療器具を運び出入りしている。愛妻は日本の病院事情にまだ疎いので、最初は何だろうと思ったそうだ。
日本人ならその場の雰囲気で敏感に察知するところだが、悲しいかな事情が飲み込めなかったようだ。おずおずと婆ちゃんのベッドに近づき呆然としていると、当直の医師と看護婦が緊迫した空気の中で緊急処置を施していた。

「ご家族の方は!?」・・・・・・(私だって家族なのに・・・・・・・)
「今、帰りマシタ」
「すぐ呼び戻してください!」切羽詰った看護婦の声が響く。
「全部デスか?」・・・・生まれてこの方、人の死に際に立ち会った事のない中国妻は、まだ訳が分からずキョトンとしている。
「そうです!すぐ電話してください!」

ようやく容易ならざる事態を察知した女房は、血相を変えて廊下に飛び出た。
すっかり気が動転していた為、病棟をグルリ1周して舞い戻り、必死に蘇生を試みている場で看護婦さんに大声で再び聞いた。
「電話どこにありマスカ〜!」

 その頃、やっと一通り親戚に電話を替え終わった私はホッと一息。
忘れたところはないかと思案中に、ドキッとするほど冷たい音の電話ベルが鳴った。

「すぐ来て!お義母さんがもうダメ!すぐ来て!」

・・・・・・・・受話器の奥で女房の声が木霊のように響く。
途端に、元々具合が良くない私の心臓は大きく早鐘を打ち、呼吸は乱れ息苦しくなった。
ついさっきまで話していたじゃないか!今日逝くなんて・・・・・まさか。
着替えする手ももどかしく、一目散にバイクで病院に急いだ。病院が近くて良かった。
弟連は幸いにもバイクで出たばかり、まだそう遠くへ行っていなかった。女房が掛けた携帯電話で呼び戻され、私より早く着いていた。
バイクを走らせながら、(間に合わないかもしれない・・・・・)と覚悟はしたものの、最後に駆けつけた私を見て、病院の廊下でヒッソリと沈んでいた皆は一様に首を左右に振った。
皆と最後の言葉を交わした僅か30分後の事であった。何とも呆気ない最後だった。

 看護婦さんに促され、みんなして婆ちゃんと悲しみの対面。数々の緊急医療器械は片付けられていた。安らかな顔をして手を胸で合掌した姿は、苦しみから開放された安堵の心地の優しい顔をしていた。

「みんな、ありがとねぇ〜」今にもそんな声が聞けそうな気がしてならなかった。

随分前に亡くなった親父の時は、ここでお袋が「お父さん!!」と言って、ワァーと泣き伏した事を思い出した。でも何故か不思議と誰も涙も出ず、悲しみも湧き上がって来ない。あまりに突然だったので、皆それぞれ実感が伴わない所為なのだろう。

ナースセンターに呼ばれ、感情を抑えた事務処理で死亡診断書を貰う。今日持ち込んだ入院生活に必要な着替えやら湯呑み、ティッシュまで急いで風呂敷に包み撤収。
間もなく病院直轄の葬儀係がやって来た。地下にある霊安室に運ぶのだと言う。
家族の感情とは裏腹に、粛々と一種セレモニーにも似た葬儀の渦に、否応無く巻き込まれて行くことになった。

11.第二部 お葬式へ続く・・・・

ホーム 戻る 次へ