上海の厳しい現実篇

5.貧乏の定義 T

                                                     2006年3月
 女房が最近インターネットオークションに凝っている。
東京では殆ど興味を示さなかったが、上海では見事に嵌ってしまった。
そのきっかけになったのが禁煙ガムで、東京でしばらく96粒6000円のを買っていたが、海外のサイトに直接アクセスして個人輸入すれば、102粒入りの同じものが2000円程度で買えると分かってからだ。
もっとも安く買えるようになったお蔭で、私の方は緊張感がなくなり、禁煙のために噛むガムが、節煙程度の効果しか得られなくなってしまったことが悔やまれる。
だから、倹約女房の努力に感謝すべきかどうかは、ちょっと迷うところではあるが、女房の方はインターネットを使えば、通常価格より安く買える快感に味を占め、その延長で上海のオークションサイトを漁るようになった。

 現在、上海で流通している様々なモノの値段は、それこそピンキリで、デパートや高級品専門店に並べられれば、昨日今日出来たような中国ブランドの品物でも高い値段で売られている。
安いはずの中国製品が、日本で売られている高級品と変わらない値段なのだから、こっちも慌ててしまう。
美容院のお姐ちゃんが、客を洗髪する泡を立てながら、私は500元の靴を持っているとか、800元の服を買ったとか、よく同僚と見栄の張り合いをしていることがある。
女房はそんな話を聞く度、(私だって買わないのに、何で買えるのよ!)と思うそうだが、どうも願望を交えて話をしている場合が多いようである。
1200元(18000円)〜1500元(22000円)の給料では、おいそれと簡単に買える筈もなく、仮に持っているとしても1足とか1着の話だろう。
日本のOLのように、高級ブランドバッグを自力で買えるほど、上海のうら若い女性の懐は豊かではない。
上海を観光された方の中には、「鉄人の話は違う!俺はブランドバッグを下げた娘を何度も見たぞ!」と仰りたい向きもあるでしょうが、あれは殆ど全部偽物でありまして、100元も出せば買える代物であります。

 以前、上海でも有名な繁華街“淮海路”でこんな事を目撃しました。
ここは現在でもコピー物を売る店が裏通りに犇いていて、沢山の客引きがしつこく道行く人に声を掛けています。ブランドバッグは言うに及ばず、時計、靴、ライター、財布、中には日本の有名メーカーゴルフクラブのフルセットやバッグまで多種多様のコピー物が売られている。
そこに隣接する服市場に行った折、目抜き通りみ面した歩道をヨタヨタと、物乞いかペットボトルを集めて糊口を凌いでいるような初老の女が、道々のゴミ箱を漁りながら歩いていた。
手には集めたペットボトルのビニ袋をとバッグ持ち、もう片方でキャリーバックをゴロゴロ引っ張っている。
外人も多く見掛ける“淮海路”では珍しいなと思って、その様子を見ていたら、案の定、女性の公安が小走りに寄って行った。

「あんたねぇ、ブランドのバッグ持っているのに、そういうことするの止めなさいよ」

単なる女性公安のウィットに富んだ冗句だったのか?外人に乞食がブランドバッグなど持っている姿を見せたくなかったのか、はたまたコピー物が横行している現状を野放し同然にしている、自分の職務怠慢を恥じてかは分からなかった。

 上海市民のまだ大半を占める低所得層、所謂、貧乏人が通常買い物をする市場やエリアは、随分整理されたとはいえ、まだ至るところにある。
ここに来れば服や靴など、デパート価格の半値か3分の1くらいで買える。
中には10分の1なんてのもあるが、そこまで安くなるとさすがにモノはよくないので、値段の安さだけに目が眩んではいけない。
安く買おうとすればリスクも多少あるのが当然で、ある程度目が利かないと、とんでもない粗悪品を掴まされることもあるし、コピー商品が多いのもこういった市場の特徴だからだ。
でも総じて、まぁまぁ、納得できる買い物が出来るので、私はここが現状上海の正当な物価基準だと決めている。
女房は高い家賃や商品価値とは関係ない余分なコストが掛からない分、安いのだ!と、もっぱら服や靴を買う場合はここを利用している。



 どこの市場も小さな店が犇き合っていて、僅か1坪足らずのスペースに商品を山積みして商売をしている。
買う方は商品の目利きもさることながら、商店主の過剰な売らんかな精神にも気を付けなければいけない。
とにかく売らなければ自分の口が干上がってしまうのだから、平気で有ること無いこと並べ立てて来る。
売ってしまえば後は野となれ山となれ、そこには売り手側のモラルもなければ責任の欠片もない。

「色とデザインは気に入たっけど、ちょっとキツイみたい」

若い小姐は真っ白いブーツの履き心地を確認するように、何度も踏み締めている。
上海は2005年の冬もブーツブーム、年頃の小姐は流行に乗り遅れまいと猫も杓子もブーツを履いた。この辺は日本とよく似ていて、若い娘の心理は国が違ってもそう変わらないようである。

「ブーツっていうのは、そういうものなのよ。少しくらいきつい方が、足が細く見えてカッコいいのよ」

狭いので商品の靴が乱雑に積み上げられた店は、年増のおばちゃんが一人で切り盛りしているようだ。
客がきついと言っているが、生憎とその上のサイズを切らしている。それでも何とか売りたいおばちゃんは、舌も滑らかにああ言えば、こう言うと無責任な売り込み攻勢を繰り出す。
ちょっと太目の若い小姐は、もう一つ踏み切れず、大いに迷っている。
デパートなら黙って600元くらいするものが、200元で買えるのだから値段も文句ないが、少々きついのと、果たして真っ白いブーツが自分に似合うだろうかと心配している。
矯めつ眇めつ眺めても、如何せん、上からの目線では客観的に判断するのは難しい。鏡に映して見てみたいが、狭すぎて大きな鏡など置くところがない店では、聞くだけ無駄のようだ。

「ど〜ぉ、おかしくない?」

あ〜ぁ、店のおばちゃんに聞いてどうする、飛んで火に入る夏の虫、似合わないなんて言う筈がないだろ!

「そりゃ、ピッタリだよ、大体こういう洒落たブーツは、あんたのような娘じゃないと似合わないんだよ」

パンパンに張ったブーツの筒口から、脹脛(ふくらはぎ)のお肉が食み出ている。
ピッタリすぎて痛々しいくらいなのに、よくもまぁ、そんな歯の浮くようなお世辞がポンポンと出てくるものである。
百戦錬磨のおばちゃんに掛かっちゃ、若い小姐など一溜まりもない。
次から次と繰り出す甘言に乗せられて、今にも財布の口を開こうとしているお姐ちゃんも可哀想だが、はち切れそうなブーツはもっと哀れだった。

庶民市場ではこんな丁々発止としたやり取りが、年がら年中あちこちで見掛けられる。



 本章の主題であるインターネット販売の話に中々入れなくて、まことに恐縮ではありますが、鉄人の話が飛ぶ癖は今始まったことではありませんので、もう少しのご辛抱を。

 だからといって、女房もすべて庶民市場で服を買っていた訳ではなく、たまにはデパートで買うこともあった。
もっとも、それは思い切った値段をつけて在庫一層を図ってくる、バーゲン時期に限られていましたけどね。
冬物なら1月〜2月が狙い目で、30%、50%のダンピングは当たり前。それでも損をしないところを見ると、まったくアパレル関係は利幅が大きい商売と思わざるを得ません。
この時期女房は忙しく、毎日のようにデパートへ出掛けては掘り出し物を探す。そんな或る日、一目見て気に入ったジャケットを見つけた。
ちょっと変わったデザインで、誰もが着ているような在り来たりの服を好まない女房には打って付けだった。
しかも目を疑う70%OFF、シーズン前なら500元で売られていたものが、なんと150元で買えるのだ。
たまたま居合わせた私も驚いた。中国では一体幾らが元値なんだか、訳が分からない。
いや、待て待て、喜ぶのは早いぞ。見たところ、10数着が吊り下がった70%OFFコーナーには、その服が1着しかないようだから、サイズが合えば儲け物だが、合わなければ糠喜びになる。
祈る気持ちで袖を通したら、これがピッタリ。何とまぁ、今日はついていると、大魚を吊り上げたような喜びが女房の顔に溢れた。

「まぁ、ちょうどいいですね、よく似合いますよ。合えばこれはお買い得ですよ」

傍らにいた小姐店員も如才なく褒めてくれた。思い掛けない大戦果に、女房も大満足の体である。
早速、会計を済ませ、ルンルン気分の女房。だが、好事魔多し、人間は欲を掻いてはいけない。
今日の成果に満足して、トットとデパートを出れば良かったのだが、女房の奴、他にもお買い得品があるかも知れないと、目を皿のようにして同じ階の売り場を徘徊してしまった。

 さっきの店の小姐店員が血相を変えて飛んできた。

「お客さん、対不起(すみません)!服の値段が間違っていました。あれは50%引きだったんです!」

ペコペコを頭を下げる店員の話では、ちょっと席を外していた責任者が戻ってきたので、今売れた服の報告をしたら、あれは50%引きの商品だと言われたらしい。
店員は慌てた!何故それが70%引きのコーナーに紛れ込んでいたのか、考えている余裕もない。
下手すると差額を弁償しなければならない店員は、血眼で私らを捜した。
結果、彼女にすれば運良く、私らにすれば運悪く、見付かってしまったという訳だった。
ついては返品してもらうか、差額の100元を払ってもらいたいというのだ。

 心優しい?女房は、同じ貧乏人同士だから、差額を個人で弁償させては気の毒と思い、すんなり返品に応じる態度を見せた。
ちょ、ちょっと待てよ!アンタも人が好いね。そんなのおかしいじゃないか!なんで店側のミスをお客が尻拭いしなきゃいけないんだ。
こっちは領収書もあるし、すでに商取引は完了しているんだから、今更言ってきたって駄目だよ!
もうこれは私らの物だから、煮て食おうが焼いて食おうが、どうしようと文句なんか言えない筈だぜ。

商売とはそういうもんで厳しいんだ、「間違えました、ゴメンナサイ」なんて簡単に通らないのが常識ってもんで、現に日本の証券会社だって、発注キーを打ち間違えただけなのに、何百億円も弁償しているじゃないか!商売は大きくたって小さくたって同じだよ!
抗議の熱弁は、とうとうバーゲン品1着から、何百億円の話まで発展してしまった。

 人々が行き交う通路で、私がいきなり自説を展開し始めたので、女房も店員も困惑している。
上海生活が長くなり、何でも文句を言いたがるところが、かなり中国人的になってきたと、最近、女房が私を評するが、案外当たっているようだった。

 よしっ!俺がその責任者へ直に言ってやる!
憤りを漲らせて店に向かう私の後姿は、いつもとは逆パターンで、怒れる女房のお株をすっかり奪っていた。
店には木で鼻をくくったように、可愛げのない小姐がいた。私らを見ても、特別、謝る気はないようだ。
なんとまぁ、中国じゃこんなことは日常的で、さして驚くに当たらないのか?平然と商品の服なんか畳んでいる。
その手を止めて、おもむろに顔を上げると、あくまで事務的にこう言い放った。

「どうします、返品しますか?」

女房は150元だったからこそ、お買い得感があったので、店側が言う100元の差額を払っては、それが消えてしまうと考え、返品書にサインをしようとした。

「待てよ!サインしたらお終いだぞ、言うだけは言ってやらなきゃ損だ!」

女房が気に入った服だから、出方によっちゃぁ、差額を払ってもいいと思っていたが、もう勘弁ならん!
私らが店員の目を掠めて、他から70%OFFのコーナーへ移した訳じゃない。
正当に買ったのを、間違えていたから返してくれとか差額を払えとか、今更、よく言えるね!
そんな言い分、どこ行ったって通らないよ!大体、そんな初歩的なミスをするなんて、管理が悪いからじゃない。
いわば責任者であるアンタのミスってことでしょう!こんな事をお客に押し付けてると、お店潰れるよ!
相手が日本語を理解できないと分かっていると、辛辣な文句も言い易いが、反面、涼しい顔をされていると益々ボルテージは上がってくる。

私の捲くし立てるような剣幕に、その責任者は渋々「対不起(すみません)」と謝罪した。
女房は端から通訳する気もなく、しばらく黙って見ていたが、「もういいから」と私を制止した。
返品書にサインする時に聞いた話では、その責任者もメーカーから単に派遣されているだけで、しょっちゅう盥回しのように店が変わるので溢していたらしい。
それで店に対する愛着のない態度は分かったが、だからといって、それがミスの理由にはならない。
私はこの一件で、凄くうるさい日本人がいると、界隈ですっかり有名になってしまった。

 これでこの話も終わりと思ったでしょう、ところがまだ続きがありましてね。
女房のバーゲン行脚はその後も懲りなく続き、3日ほどして又そのデパートに行った。
気に入っていたあのジャケットに未練があった訳でもなかったが、何となく気になって、夫婦でそぞろ歩きながら先日の店の前を通った。
チラチラ覗き見たら、なんとまだあの服があったじゃありませんか。
しかも、あれだけ揉めたのに、性懲りもなくまた70%OFFのコーナーに吊り下がっている。

「なんだ、やっぱり7割引だったんじゃないか。あいつは馬鹿だね〜、結局、売り損ねたんじゃないの」

私は改めて買い直そうか?と水を向けたが、女房の方はもうその気が冷めてしまって、散々言い争った曰く付きの物は、それほど欲しくない様子だった。
他の店も只今バーゲンセールの真っ最中。女房にしてみれば、そんなのを無理して買わなくたって、お宝の山は他に幾らでもあると思ったようだ。
丹念にあちこち見て回ったら、今度は冬物コートの掘り出し物を見つけた。
鮮やかなライトグリーンでデザインも良く、試着してみたら着心地もいいので、更に気に入った。
さすが定価800元(12000円)で売られていたものは、生地もしっかりしていて申し分ない。それが冬物一掃で320元(4800円)の値札に書き換えられていたから、女房は一気に買う気になった。
私は女房が気に入ったものを決して貶(けな)したりしない。基本的には褒めそやすことにしている。
だけど、このライトグリーンってのは、どうかねぇ?女房は顔は地味なのに、何でこういつも着る物は派手なのを選ぶのか、その心理を量りかねる。

 このデパートでの支払いは集中管理されていて、テナントからの伝票を所定のレジに持って行き、そこで払った領収書を再びテナントに持って行くと、始めて品物を渡してくれる仕組みになっている。
随分面倒だが、デパート側が各テナントから歩合的家賃を取っている為かも知れない。そこのレジで時間を限定したサービスのチラシを見た。
300元買い上げると100元のサービス券をくれる期間が、何とラッキーなことに今日までで、時間は午後1時から4時までとなっている。

「このサービス券まだもらえるか、聞いてみろよ」

女房がコートの代金を払いながら聞いてみると、勿論、時間内だからくれるという。
時計を見たらギリギリ滑り込みセーフの3時半、おっと!時間がないぞ、急げや急げ!

「グズグズ他を見ている時間はないぜ!あの150元の服にしちゃえよ」

因縁の店は、先日の責任者から聞いていたとおり、売り場のメンバーが替わっていた。
女房は初見の顔を装い、品定めをする振りをしながら例のジャケットを取り上げて、さり気なく店員に尋ねた。

「これ、ほんとに70%OFFで間違いないの?」
「ええ、そうですよ。そこにあるのは、とってもお得ですよ」

すでに試着済みだったが、もう1回袖を通してから、再びしつこく聞いた。「これ、70%OFFよね」
言ったその顔には、今度こそ返してくれといってきても、絶対に応じない決意が漲っている。
先日とは別顔の責任者が、伝票を書きながら薄笑いを浮かべたように見えた。
私らが二言、三言、日本語で話しているのを聞いて、これが伝達を受けていた例のうるさい日本人かと敏感に察知したようだ。
女房は、懲りずにまた同じものを買いに来たと思われては、メンツがないと恥ずかしがったが、店側の非を論(あげつら)った張本人の私は、何を言われたって分からないのだから痛くも痒くもない。

 いずれにしても、洞察力が鋭く、先見の明に長けた女房に感服した。
100元のサービス券を使ったので、正味50元で買えたことになった。あの時、ゴネ捲くって150元で逃げ切ったとしても、100元の損だった事を考えると、なんとまぁ、先の事は分からないものである。
今日はジャケットの入った袋を受け取ると、一目散にデパートを出た。
夫婦で顔を見合わせ、思わず「やった〜!」と叫んでしまった・・・・・何とも貧乏臭い話でありました。

6章へつづく


後記
とうとう本題の枕話で1章を費やしてしまいました・・・・・反省!
6章からは、いよいよ貧乏でも明るく生きる上海庶民の、悲喜こもごもをお伝えいたします。
それでは次回、6章 貧乏の定義 Uで、またお会いしたいと思います。

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