上海一族の崩壊

7章 人間の絆

 人間は誰にでも平等にチャンスは訪れる。お舅さんにも一時だが花が開いた時期があった。
文化大革命の末期には、押しも押されもしない堂々たる貧民出身の経歴が幸いして、国営企業での地位も5人合議制取締役の一人にまで上り詰めたというから凄い。
まったく人生何が幸いするか分からない。
まだ30代半ばの若さである。まさに人生の運をここで使い果たしたような大抜擢であった。
どういう巡り会わせでそうなったのか、果たして上海人特有のハッタリなのか、事実は定かではないが、女房の微かな記憶でも羽振りのよかった父親の思い出が残っているから、満更嘘でもないのだろう。
だがこの時代、地位は上がっても給料は一般労働者と大して変わらない。
お姑さんも取締役夫人として優雅に暮らすなんて夢のまた夢。生活そのものはなんら変わることなく、相変わらず工場で働いていた。
夫婦で働いても収入は89元。家賃に6元、生活費に48元、その他諸々で貯金など1元か2元残るかどうか、ギリギリの生活であった。
当時は革命幹部でさえ、最高が70元の給与であり、一律平等の精神は貫かれていたようだ。
ただ企業代表として、様々な地域への出張旅行や高級餐庁での接待豪華料理など、特権余禄は確かにあった。後年何か得した事があったかと訊かれても、まぁその程度である。
今では恒例となった私たちとの家族旅行でも、お舅さんが中国各地の名産や地理に明るいのは、きっとこの時の所産なのだろう。
文化大革命以後、大きく政治路線を変えた中国。確かに一歩一歩豊かさへの階段を上り始めたが、ケ宰相が危惧した通り、一律平等は根底から崩れ、貧富の差はますます拡大していった。
官も民も、それぞれの立場や地位を利用した賄賂の横行は現在も後を絶たず、その為の出世を夢見る若者も少なくない。何処の国も発展途上の過渡期には仕方ないのだろうが、早く世情が落ち着いてもらいたいものである。
今でも一見して接待ではないと分かる高級餐庁での宴席で、社員、従業員と思しき人達が上司を持ち上げ、会社経費で散々飲み食いをしてる場面と頻繁に遭遇する。
私らでもちょっと躊躇してしまうような1匹600元もする伊勢海老料理などが、いとも無造作にそれらのテーブルに運ばれて行くのも何度となく目にした。
これでは国民から絞り上げた血税を自分らの利益の為、いとも無造作に湯水の如く使ってしまうどこぞの国の官僚と同じである。
自分の金でなきゃ、豪華料理の大盤振る舞いも出来る筈、これじゃぁ会社は儲からんだろう。

 人生において華やかな時は得てして短い。お舅さんも文化大革命が終わるや否や、元の知識階級が続々と戻って来ると、即座に本社から工場へ降格。そして左遷、出向と転落の一途を辿った。
時代は鮮明に変わった。もう貧乏人が幅を利かした革命の時代の終わりを肌で感じた。
同僚の勧めで大学の卒業資格をお金で買っては見たが、所詮はただの紙切れに過ぎない。
新しい時代の流れは、お舅さんにとって裏目裏目と出て、いつしか過去の人と忘れ去られていった。
それからの半生は「もうかりまっか?上海4章」に詳しく載っているので参照いただきたい。



 1980年、下放から戻ったお姑さんの弟は、自分の意思とは関係なく振り回された10年を思い、一時人に会うのも億劫で塞ぎ込んでいた。
だが、いつまでもそうしていられる状況ではなく、何よりも老婆の期待が胸を刺した。
50歳も半ばを過ぎたその顔は、歳よりもずっと老けて見える。
自分の将来も含め、気持ちが焦り始めた頃、やっと「分配」が決まった。当時は自分の希望する職業や会社を自由に選べなく、国が公平分配を建前に、それぞれの行き先を決定した。これは政府高官のコネでもない限り否も応もない。
2年後の30歳で妻を迎えた。少々気の強いところが難点だったが、弟は自分の境遇を考えると、多くを望める余裕などないことは分かっていたので、黙って周囲の薦めに従った。
老婆も長い工場勤めを終えて、今は年金も貰っている。勤めていた単位が国営でなかったため額こそ少ないが、それでも家計の助けにはなる。これでやっと人並みの暮らしが出来るのかと淡い期待を抱いた。

 中国では公共的な費用負担の多くは、国営企業などの組織が負担していた。企業や大学は"単位"と言われて、かつては住宅や幼稚園、病院、果ては風呂でさえも自給自足の形で供給していた。
現在でも年金は"単位"が退職者に対して支給するので、大きな"単位"に属していた人はいいが、衰退する企業や退職者が多い企業では、福祉に回す金が当然不足することになる。
企業の無い農村部では、都会並みの恩恵に浴せないのが実状なのだ。
うちのお舅さんは文化大革命の終局以後、降格を繰り返したものの国営企業には変わりなかったので、今も毎月の年金額は1200元ほど支給されている。
連れ合いのお姑さんは残念ながら、長年勤めていた企業が小さかった為、49歳でレイオフされて以来、現在の年金はお舅さんの半分、600元しかない。
それでも今は夫婦合算すれば何とか食べていけるが、日本の年金行政の破綻振りと同じように、中国もこの先いつまで払い続けていかれるのかは大きな疑問でもある。
なにしろ建国以来、倍以上に膨れ上がった人口増加の約7億人が、順繰りに大きな口を開けて待ち構えているのだから、これは容易な事ではない。

 幸せになるもならぬも自分の心ひとつ。悲しいかな、老母はこの事が良く分かっていなかった。
亭主に早く死に立たれ、貧しい上に中国激動の時代を、女手ひとつで子供を育てていくことは、確かに並大抵のことではなかっただろう。女で生まれたことが恨めしく、そして悔しくてならなかったのかも知れない。
その思いが男偏重の意識へと変わった。いざとなれば女は頼りにならないと、あからさまに毛嫌いするようになり、その矛先は一層息子を生き甲斐とし、また依存する方向へと向かっていった。
嫁は間もなく子を宿した。正直ホッとした気持ちになった。丈夫な子が生まれてくれれば、きっと今の気まずい空気も一変するに違いない。夫も大変な喜びようだし、老婆だって嬉しくない筈はない。
幸せな家庭の団欒を夢に描きつつ、嫁は翌年玉のような子を産んだ。だが残念な事に生まれてきた子は女の子、すでに一人っ子政策が施行されていたから次は望めない。
老婆にすれば嬉しさも今ひとつだったが、初めての内孫の可愛さには変わりなく溺愛した。
これで母方本家も万々歳と思いきや、老母の心根は改まらず、相も変わらず口喧しく嫁を追い立てた。
これでは嫁とうまくいく筈はない。もともと気の強かった嫁の心に、いつしか憎悪の火が燻りだす。
いつか仇をを取ってやろう・・・・・・老母と対立を深める一方で、そのチャンスを待つようになった。
 
 息子にとって自分の直系家族は大切だ。生まれた子供は可愛いし、その子を成してくれた妻も愛おしくなってきている。それなのにただの労働力にしか見ない老母の言動は目に余る。
妻が嫁として苦しい立場にいる事も重々承知していたが、老母には厳しい貧乏の中、育ててもらった恩があるし、そう強くも窘められないジレンマに悩み自分を責めた。
妻を不憫と思う気持ちは、そのまま息子から夫への比重となり、それは日を追う毎に激しく傾いていった。
息子は老母をだんだん疎ましく思うようになり、子供の誕生で期待した家族の和は、ただの幻想に終わったことを肌身で知った。
幸せになるもならぬも自分の心ひとつ・・・・・・まさか自分に非があるとは思わない老母は更に孤立して行く。



 うそ寒い空気の漂う本家の暮らしにも10年の月日が流れた。
今ではその居心地の悪い空気もすっかり日常のものとなっている。時はごく自然に過ぎて行き、老母を除き、家族の誰もが不具合など感じてはいない。
一粒種の孫娘は小学校3年生になり、可愛い盛りだ。爪弾(つまはじ)きの老母は66歳になっていた。
このところ老いが加速したように激しくなってきている。

「わたしゃ、もうあそこに帰るのが嫌になったんだョ。どうだい、お前たちと暮らせないかねぇ」

娘であるお姑さんのところヘ、ひょっこり訪ねてきた老母は目を瞬かせ、こちらの出方を窺うようにそう呟いた。お姑さんにしてみれば、昔から「息子、息子!」と弟ばかり大事にして可愛がり、娘盛りの稼ぎもほとんど弟の為と取り上げられた事を思い起こすと、何を今更という気もなかった訳ではないが、その善良さゆえに夫と相談してみると答えた。
そうは言ったものの、夫には弟が下放されて上海にいなかった10年間、陰になり日向になり、よく実家の面倒を見てもらった。これ以上の迷惑は掛けられない。
その晩、浮かぬ顔をして沈んでいるお姑さんの顔を見て、お舅さんが訳を尋ねた。

「俺は構わないよ、一緒に暮らしたらいいじゃないか」

意外にもあっさり引き受けてくれたので、夫に申し訳ないと思う反面、拍子抜けしたように安堵感が広がった。善は急げと、翌日には老母に使ってもらう部屋の片付けを始めて準備を整えた。

2、3日して老母から連絡があった。やはり息子のメンツを潰したくないから、こちらに居ると・・・・



 1990年代に入ると上海の中心部は目に見えて変わりだした。大発展の波が押し寄せてきたのだ。
老母と弟家族の家は上海市内といっても北の外れにあって、まだまだ発展の兆しすらない寂れた場所にあった。黄色い砂埃が吹き抜ける一角に、古びた5階建ての低層住宅があり、その3階に住んでいた。
勿論、エレベーターなど気の利いた設備などある筈もなく、足腰が弱りだした老母にはかなり堪える。
中心部に住むお舅姑さんの住まいから、バスを乗り継いで1時間半くらいのところにあるのだが、行き来は滅多になく、会うのは旧正月ぐらいであった。
たまに会うと、皺だらけの顔を一層くしゃくしゃにして、涙を流さんばかりに喜んだ。
お姑さんの心中には、辛い仕打ちを受けた昔の思いはあるものの、こうして力も萎え、ただの弱い老人になってしまった姿を目の当たりにすると、もうすべて水に流そうという気に駆られた。

 老母が倒れたのは、それから5年経った或る日であった。
自室で苦しんでいるのを、たまたま嫁が見付け、慌てて救急車を呼んだ。持病である心臓病の発作だった。
連絡を受けたお姑さんは、取る物も取り敢あえず病院に駆けつけた。追っ掛け、息子もお舅さんも急を聞いて飛んできたが、老母の症状は意識が乱れ深刻だった。
医師の話では「特効薬の注射があるが、1回300元するがどうする?」と聞いているという。
お舅さんは「金のことは後で何とでもなるから、すぐに打ってもらえ」と即座に言ったが、何故か息子は一瞬躊躇うような間が空き、ハッとして我に返るように同調した。
医師の言ったとおり、効果は覿面(てきめん)で、ほどなく危機は脱し一命を取り留めた。

 入院中はしばらくお姑さんが付き添う話になった。両側に4人づつ、計8台のベッドが並ぶ病室は全体が煤(すす)けた白一色の上に薄暗く、どこか陰湿な感じさえする。
すんでのところを助かったというのに老母には喜びの色はなく、付き添うお姑さんを見詰めたその目から、一筋の涙が流れ落ち枕を濡らした。

「何であのまま死なせてくれなかったんだよ・・・」

消え入るように呟いたその言葉の終わりに、また大粒の涙がこぼれた。
 
 一週間後に退院は出来たものの、お姑さんの目には老母が何かに憑かれたように精気が薄れているのを感じ、それが気になって時折見舞いを兼ねて、以前より頻繁に様子を見に行くようにした。



 実家の低層住宅は老朽化が激しく、一層みすぼらしい佇まいとなっていた。
そこで外装はどうにもならなかったが、自分のところの内装だけはやり直した。
嫁さんの長年の夢でもあったから、その喜びは一入で、いつどこを見てもピカピカに磨き上げていた。
老母の部屋は6畳ほどの大きさで、向きは北側らしく、いつもひんやりした薄寒さを感じる。
あれから老母はすっかり足腰が弱くなり、一人では思うように歩けないほど衰弱していた。
親身に介護する気持ちが家族にないらしく、家のトイレを使わせると粗相をするからとの理由で、部屋には馬桶(簡易トイレ)代わりのプラスチックバケツが隅に置かれていた。
食事も最近は家族一緒のテーブルですることも無いのだろう、老母用の小さな食膳が机に載っている。
茶碗に食べ残したご飯が半分干からびているのが、一層哀れさを誘う。
嫁にすれば、昔、骨の髄までいびられた恨みの溝は深く、老母の自業自得とでも言いた気だったが、お姑さんにはそれでは如何にも身内の情が無さ過ぎると思えた。
孫娘も美しく成長して高校生になっていたが、それは見掛けだけで、老母に対してはまるで汚いものを見るような目で遠ざけた。子は親を良く見ている。

「わたしゃ散々貧乏してきたからねぇ、もう貧乏は沢山だょ」
「死んだらあの世で困らないように、お金も家もいっぱい燃やしておくれよねぇ」

老母はゴホゴホと苦しい咳をしながら、お姑さんの手を握り、何度も何度もそう頼んだ。
迷信といってしまえばそれまでだが、中国では紙で折ったお札や家や家具を、弔い時に燃やすのが風習として残っている。

「何言ってるの!そんな話まだまだ先のことだよ」

お姑さんは話を逸らすように、長いこと風呂に入っていない干からびた老母の体を強く拭いた。



 或る日珍しく実家の弟から電話があった。

「婆さんが姉さんの家に行きたがっている。今までこっちで面倒見たから、今度はそっちで看てくれないか?」

お姑さんには、死に掛かっている母親を厄介払いするように聞こえた。
以前こっちで面倒見るといった時、世間体を考えて反対したくせに、手に負えなくなったら追い出す算段か、なんて薄情な弟だ。温厚なお姑さんもいつになく腹が立った。
さすがのお舅さんもこれには反対した。昔とは状況が違う、今の家は狭いし息子も嫁を迎えてしまった。
引き取っても寝かせる場所さえないし、第一義弟の虫のいい言い草に怒りを感じた。

「それなら養老院に入れるしかないな。費用は折半だぞ」

お姑さんは電話口で唇を震わせた。これが人一倍可愛がって育ててもらった親への仕打ちか。
中国の養老院は、日本にある施設とは雲泥の開きがあり、まるで姥捨て山に閉じ込められたような劣悪な環境だと人づてに聞いたことがある。
人間が終焉を迎える場所として、それではあまりにも惨めだろう・・・・・
お舅姑さんは意を決して老母を引き取ることにした。人間としてそこまで非情にはなれない。
同居する息子夫婦も、きっと分かってくれるに違いない。これは人間としての務(つと)めであり絆だ!

そう決心してからほどなく、その意を感謝するように老母は静かに息を引き取った。
1999年の秋、享年75歳。中国激動の時代を生き抜き、貧しく幸せに恵まれない人生だった・・・・・

8章 家族の絆に続く・・・


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