上海一族の崩壊

6章 私は泣かない!

 中国の屋台骨を揺るがす文化大革命が起こって3年、若きお舅さんとお姑さんが結婚した翌年に娘が授かった。現在の私の女房である。
その頃の私といえば、もうすでに若い娘の尻を追い掛け回していた。
日本もまた荒れていた時期で、各学園紛争の最中、東大安田講堂立て篭もり事件なんかもあった。
「やっぱり生はTVより迫力が違うなぁ〜」などと、野次馬根性丸出しで見に行ったものだ。
学生対機動隊の攻防戦を、木によじ登り、放水車のとばっちりを受けながら濡れ鼠で見ていた。
ゴーゴーダンスが流行り、映画はやくざ映画の全盛時代。高倉健の唐獅子牡丹シリーズ5本立てなどが、よくオールナイトで上映されていた。
「とめてくれるなおっ母さん、背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」なんて映画もどきのセリフが流行ったのもこの頃で、闘争学生もチンピラも労働者もスクリーンに熱い声援を送っていた。
まだ公共の場でも禁煙なんて上品な条例がなかった時代。満員の館内はたばこの煙で靄(もや)が掛かったようで、目を瞬(しばたた)かせ、咳き込みながら観た記憶がある。
クレジットタイトルに「主演・高倉健」とか「監督・マキノ雅弘」なんて出ると、ドォ〜と拍手が沸いた。義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界。主人公が殴り込みに向かう、雪のちらつくラストの道行シーンなど「ヨ〜シ、行って来い!」と掛け声までかかった。
芝居じゃないんだからねぇ。まぁそれだけ熱狂的ファンも大勢いたということである。
昭和30年代の終わり、40年代の初め、人間の喜怒哀楽がはっきりしていた頃の話だ。

その頃、女房が生まれた。
まったく時代背景も環境も違う二人が、後年、縁(えにし)の不思議な妙に引き摺られるが如く夫婦の契りを結ぶとは、この時まだ夢想だにしなかった。



 お姑さんは娘を背負って毎日織物工場に出掛けた。会社には託児所があり、娘をそこに預けて働いた。
この頃は旧式ではあるが機械化されていたので、体はいくらか楽にはなっていたが、相変わらず生活は苦しく、夫婦で働いても食べるので精一杯の日々が続いた。

文化大革命の嵐は益々吹き荒れ、過激になっていった。
多くの国民が苦しいのは現体制が腐り切っているからで、これを全部打ち壊さなければ労働者が救われる道はない!今まで権力を嵩にして楽をしてきた奴を引き摺りだせ!金持ちを叩き潰せ!と貧民は気勢を上げた。
一方子供らも大人を見習い、学校内は収拾がつかない大騒ぎとなっていた。窓ガラスは子供らの石礫(つぶて)で悉く割られ、それぞれの教科書は校庭で大量に焼かれた。
校長を始め、多数の先生が取り囲まれ、詰め寄られ、寄って集って吊るし上げられた。年端もいかない小中学生にである。
今日本でも問題になっている学級崩壊なんて生易しいものではなかった。

 一般大衆の大人も子供も、事の是非など分かっていない。
あの「偉大なる領袖」には逆らえないし、逆らえば明日自分が吊るし上げられるかも知れないという恐怖が、一種の狂気となって無告の民を駆り立てた。
市中でも連日赤旗の大旗が打ち振られ、鉦や太鼓を激しく叩きながら、徒党を組んで旧体制幹部や富民の摘発を行った。
爪に火をともすように倹約して商売の芽を育ててきた人が、やっと軌道に乗ってきたと繁盛を喜んだのも束の間、清廉な労働者から不当に搾取して蓄財した「新富民」の汚名を着せられ財産を没収された人さえいる。
この国では等しく貧しくなければ生きて行けない。才能があっても人並み以上に努力をしても、豊かになることが許されない。どうしようもなく閉塞した空気が周囲を支配していた。

 やがてお舅さんの会社にも実権派狩りの波が押し寄せた。
塀といわず、壁といわず、建物内部のいたるところに大書された「反革命分子打倒!」の文字が踊る。謂れのない責任を追及され、経営に携わる高級幹部は勿論、各セクションの管理者までが工場の広場に引き摺り出され、「階級の敵」として一大批判大会が連日繰り広げられた。
頭に三角帽を被せられ、首から「反革命分子」と書かれたプラカードを下げて壇上で項垂(うなだれ)れている。労働者は各々拳を振り上げ、ある者は唾を吐きかけ、ある者は罵声と怒号を浴びせ掛けた。そして牛小屋に押し込めたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を強制した。
面子を重んじる中国人には耐えられなかったろう。ましてや今まで会社幹部として、人を叱責することはあってもされたことはないのだ。
当時のはやり言葉の中に「鳳凰から鳳凰が生まれる。ネズミの子に生まれたら土を掘るばかり」というのがある。鳳凰から生まれ、特権階級の中で安穏と暮らしてきた子弟には、この屈辱が耐え切れず自らの命を絶った者もいた。

 勤勉さが認められて班長の役職だったお舅さんは戦々恐々とした。
だが管理職とはいえ末端であったし、元々温厚な性格が幸いして、人から妬まれたり恨まれることもなかったので吊るし上げは免れた。
矛先は回避できたが、昨日まで上司だった人を気の毒に思い、熱病に浮かされたような糾弾には、積極的に加担する気持ちにはなれなかった。
だがやらなければ反動分子と疑われ、明日は自分があの壇上に立たせられるかと思うと身震いがして、家族の顔を思い浮かべながら力の限り赤旗を振った。

「あの人は私を苦境から引き上げてくれた人、皆が言うほど悪い人じゃない・・・・・・」

嗚咽しながら壇上で自己批判する元上司に、お舅さんは涙を禁じえなかった。

 労働者が会社のすべてを掌握した訳だが、ただの烏合の衆の寄り集まりで会社の業務が円滑に進む訳がない。工場の操業も会社の業務も、数ヶ月に渡って停止を余儀なくされた。
生活は益々苦しくなっていった。
一方では辺境農村へ下放されたお姑さんの弟も、現地では自給自足の生活が侭ならず、支援を求める手紙が度々届いた。
下放運動に従い、青年を受け入れた地方の農民も被害を受けたが、あたら貴重な青春の日々を無為に埋もれさせられてしまった若者は、もっと辛く気の毒であった。
辺境での開墾事業は困難を極め、経済効率ははなはだ悪く、成果もそれほど上がらないのに下放青年の生活に必要な食料や石炭が、わざわざ都市から運ばれて行った。
これによって国家も多大な損失を蒙る結果になったが、苦しいなか支援しなければならない家族は生きるギリギリの瀬戸際まで追い詰められた。

 お舅さんは唇を噛んだ。こんな目に遭わなきゃならないなんて、俺が何をしたって言うんだ!
人間が苦しさに耐えて働くのは誰の為だ・・・・・・・国家や党の為なんかじゃない!家族の為だ。
何故それがいけないんだ!何故それが許されないんだ!
思えば生まれてこの方、楽しかったことなどなかった。何とか食べてその日を生き延びることに懸命で、苦しさや辛さなどいつしか当たり前になっていて、楽しいこと嬉しいことが一体どんな事なのかさえ良く知らないで、ここまで来てしまった。

だが俺だって人間だ!人間らしく生きてみたい。今の幸せはやっと手に入れたものだ!
グズグズしていたら、これだっていつ取り上げられてしまうか分かったもんじゃない。
延々と続く深い泥濘(ぬかるみ)、そこにドップリと嵌まり込んだように光の見えない生活の中、第二子が生まれた。今度は男の子だ!お舅さんは暗い世相ではあったが、跡取りが出来たと素直に喜んだ。
(親の心子知らず、この跡取り息子が現在離婚問題で揉めている女房と2歳違いの弟だ。)
お舅さんとお姑さんは、貧しくても授かったこの子達は無事育て上げようと手を握り合った。

 文化大革命も末期に近づくと、さすがに庶民の間にも動揺が広がり、「偉大なる領袖」への忠誠も揺らぎ始める。これが革命か?こんな事をしていて本当に幸せになれるのか?
人心も産業もすっかり疲弊して、北京は破綻寸前にまで追い込まれてしまった。
密告を恐れてもう肉親さえ信じらず、本心など打ち明けられない。今日、溝に落ちた犬に石を投げつけていた自分が、明日その溝に落ちる犬になりかねないからだ。
国民がようやく気が付き始めた時、時代の機運もそれを待っていたかのように、1976年悲劇の宰相「周恩来」の死をきっかけに第一次天安門事件が起こり、まもなく文化大革命の嵐は終息した。
・・・・・・・・女房が8歳、弟が6歳の時だった。



 疲弊した国家の建て直しに必要な人材が名誉を回復して、続々と辺境より戻って来る。
まず着手したのは、自分や家族を見捨てた国家への協力ではなく、革命運動を口実に我が物顔で無実の人達を蹂躙した者達への復讐とも呼べる報復だった。
私利私欲に走って権限を振るった者はともかく、真に革命を信じて行ってきた若者も共に断罪され、ここでも又悲劇が生まれた。
やったり、やられたりの恨みの後遺症は、いまも中国社会の内奥に深く刻みこまれている。
同じ悲劇は日本でもあった。戦中戦後の教育を受けた子供達も同様だ。戦時中は国民はすべて天皇陛下の赤子(せきし)として忠誠を誓うものであったが、戦後はいきなり民主主義となり、主権は国民に移った。
時代に翻弄されるのはいつも底辺の弱者。国は違っても、国家の都合に振り回された国民の悲劇はどこか似ている。多くの子供がそれに戸惑い、先生も又今まで教えてきた事を否定しなければならないジレンマに悩んだ。
 
 お姑さんの母親は息子がすぐ帰ってくるものとと、一日先秋の思いで待った。だが下放された1600万人もの青年を、直ちに呼び戻せるほどの受け皿が都市にはない。
加えて建国時5億4千万人だった人口が、たった30余年で倍近くにまで膨れ上がった10億人にも迫る人口増加が更なる足枷となった。
建国以来、絶大なる権勢を保持し、半ば神格化されて中国に君臨し続けた偉大なる領袖は、人口の増加は労働力の増加となり、しいてはそれが生産の増加にも繋がる。これこそが富強の第一歩であり、生産力が必ずや消費を上回る筈と思い込んだ。
だが現実的には「みんなが等しく食べられる問題」は解決されず、人口増加によって一層切実な問題として重く圧し掛かっていた。

 結局、息子が故郷へ帰る許可が出るまで、まだ2年の月日を要した。僻地で所帯を持ち、子まで成した者など最後まで許可が下りず、その地に留まることを余儀なくされた。
疲れ果ててやっと我が家へ帰り着いた弟は、もう28歳になっていた。
18歳からおよそ10年間、青春の大半はすでに空しく過ぎていた。家族の中でも、この弟が文化大革命の一番の被害者だったのかも知れない。

 80年代に入り、新生中国を担う新しい指導者が、180度の方向転換を人民に示した。
貧民が片寄せあって生きてたってロクなことはない。貧しくても等しければ良いなどという話はもうよそうではないか、まず豊かになれる奴から先に豊かになってしまえ!という「先富論」をブチ上げたのだ。
これだけ爆発してしまった人口を養うだけの力は、今の政府にはない。ならば「食べる問題」は国民一人々が自らの問題として、その裁量や責任に任せてしまおう。
1949年の建国以来、等しい貧しさの中で冷凍状態にされてきた中国人の商人気質を解凍させて、個々の商売を認めれば、あるいは活路が開けるかも知れない。いや、必ず逆境を跳ね返し、新しい中国に生まれ変われる筈だ!
誰もが努力によって「富める」ことが出来るという希望を持てば、再び中国は甦るだろう。今この危機を打開突破するにはこの方法しかない!
もう従順な「赤い猫」でいる必要はない。これからはどんな毛色でも「鼠を取れる猫」が良い猫である。金儲けは悪ではなく、是であると奨励した。
やがて平等であるべき社会主義社会にも貧富の差が生まれ、貧しくも安定していた生活は崩壊するかも知れないが、今はこれでいい。
かくして改革・開放政策が大いなる一歩を踏み出し、以後着実に歩み進展して行く。
現在上海に限らず中国全体を包む拝金主義は、上からのお墨付きを得て、金儲けの上手い奴が能力のある者と勘違いしたところに原因があるように、私には思えるのだが・・・・・

7章 人間の絆へ続く・・・・・・


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