上海一族の崩壊
5章 愛すべき父よ母よ
| お姑さんは今年還暦を迎えた。中国では数え年が一般的だから満で59歳という事になる。 女房はお姑さんと容貌が実によく似ている。したがって言わずもがな、美人系ではない。 本人は「どこが似ている!」と声を大にして言い張るが、どう贔屓目に見ても血は争えない。 お姑さんを見ていると、女房の20年後の姿形が容易に想像がつく。 まぁ、私はそんな白昼の悪夢など見ない内に逝きたいものと常々考えている。 このお姑さん見掛けはともかく、欲得づくの上海にあっても悪意をまったく感じさせない生来の人の良さが身上なのである。他人を出し抜くなんて金輪際出来るような人ではないから、いつも人の風下に立って割を食っている。 金が物を言う上海だから決して欲がない訳ではないが、自分の分というものを弁(わきま)えているから、身の丈以上のことは望もうとしない。 辛酸の限りを尽くした半生だった筈なのに、よくぞ捻(ひね)くれなかったものと感心する。 親の愛情を受ける期間がちょいと少なかっただけで、気持ちがささくれ、その影を後々まで引き摺ってしまった私など恥ずかしくなってしまうくらいだ。 お姑さんが生きてきた青春時代は、大発展どころか大後退だったあの文化大革命が吹き荒れた。中国はそのお陰で、豊かさへの道が20年は遠退いてしまったといわれている。 ささやかな望みを抱いたところで、いとも簡単に捻り潰されてしまう八方塞がりの時代。 夢は所詮夢でしかなく、赤い毛〇〇語録を高く掲げ、ひたすら振り続けなければ明日をも知れぬ、そんな青春の日々だった。 お姑さんも昔の話は嫌な事ばかりとあまり話したがらないが、断片的に聞いた話を繋ぎ合わせると、その波乱に満ちた半生の道程が朧げながら見えてくる。 父親が革命前から教師をしていたというから、幼い頃は生活に困る事はなかったらしい。 多くの人が日々食べる事に汲々としていた時代だから、その頃に教師をしていたという事は家柄も良かったのだろう。 母親も字が読めたというし、若い頃から煙草も吸っていた記憶があるから、少なくとも貧民の出ではなく富民に近い出身だったようだ。 一家の柱であったその父親が、お姑さん12歳の時、流行り病で亡くなった。 自分に頼りきった妻と年端も行かない子供を残して逝くのは、さぞ心残りで無念だったに違いない。生活の基盤と心の支えを失った一家の暮らしぶりは、この日を境に大きく変わって行く。 今まで働いた事などなかった母親も仕方なく工場に働きに出た。 お姑さんには4歳違いの弟がいる。この弟の面倒と家事の一切が少女の肩に重く圧し掛かった。次第に小学校も休みがちになり、母親は学校から注意を受けても、生きて行く事の方が余程大事だとばかりに無視した。 娘はいずれ嫁に行って他人の家を助ける。そんな娘に学問など要らない、頼りになるのはやはり息子しかいない。娘はせいぜい嫁に行くまで私を助けるのが親孝行ってもんだ。 再三の注意にも耳を貸さなかったので、ある日とうとう役人がやって来た。 これ以上逆らうとタダでは済まないと感じた母親は、その時だけ仕方なく学校へ行かせたが、ほとぼりが冷めればズルズルと元の木阿弥、その繰り返しだった。 この頃は建国からまだ間もない時期でもあり、共産党が掲げていたスローガン通りには、まだ食べられない時代だった。配給は肉など10日に1回、1人100g程度しかなく、これではとても生きていけそうもない。 日本でも戦後の混乱期は物不足が深刻を極め、、配給だけではとても暮らせなかったが、それでも闇市に行けば何でもあったように、中国でも自由市場には溢れるほど物が集まった。 お金さえあればすべてが揃う自由市場だが、金がなければたとえ子供であろうと叩き出される。 少女は苦しいなか工面した小銭を握り締め、わずかな肉を買いに行く。 自由市場には肉を商う人が沢山いたが、その中でも一番安くておまけをしてくれそうなおじさんを探す。やっと買った肉の包みを大事に抱え、夕暮れを小走りに戻ってくる。 心弾ませ包みを開いた中身を見て、ちょっと首をかしげた。なんだかいつもの肉片より少なそう。 自分の家の手持ち天秤で計り直す。・・・・・・・何回やっても少し足らない。 子供心にもピンと来た。「あの、おじさんそんな風には見えなかったけど・・・・・」 ・・・・・・・・そこで次に行く時は一計を案じる。 「おじさん、これでやって」 その手には家から持ち出してきた手持ち天秤が握られていた。 「なんだ、なんだ!俺が誤魔化してるって言うんか!」 人でごった返す狭い通路で突然怒鳴りつけられ、大勢が振り向き注視する中で散々罵倒された。子供心に貧乏の辛さが身に沁みた。 日本でも闇市にはそんな手合いが多かったが、物がない時代だから飛ぶように売れた。 戦後もしばらく経ち、闇市がなくなった後も駅前や繁華街の雑踏の中で、バナナの叩き売りや服地・反物など威勢よく啖呵売りするテキ屋の口上が聞けた。 「わたくしはインチキは嫌いで〜す!よ〜く見ててョ」 客が必要な服地の長さを、目の前でひょいひょいと竹の物差しで測る。騙されまいと客は目を皿のようにして見詰める。 (よし!これなら大丈夫)と納得して買ってきた生地だった筈なのに、家で測り直してみると丸で手品にでも引っ掛かったように、かなり短い事が多かった。 昭和30年代も前半は まだ多くの人々の生活は苦しく、確かに一流のデパートで買えば騙される事もなかっただろうが、庶民には高くて中々手が出ない。今の中国がその時とまったく同じ状況にある。 私のお袋さんもよく騙された口だ。 (秋ももう終わりだ、すぐに寒い冬がやってくる。今年は子供達をもなんとかしなきゃ・・・・) そんな切ない親心も大道商人にとっちゃぁ、格好の獲物。 「俺んとこは、そこらのインチキ物とは訳が違うんだぁ!」 大体こういう事を平気でいう奴に限って怪しいと相場は決まっている。 目の前で生地や毛糸の端切れに火を点けてみせる。チリチリと純毛独特の焦げる匂いが鼻を突く。純毛がこの値段で買えるなら超お買い得だと誰もが思う。 「こりゃ安い!」一人が大声を張り上げ、これ見よがしにお金を払う・・・・・こいつはサクラだ。 それに釣られたように次々と周囲の客の手が伸びる。 なけなしのお金をはたいて買ってきた毛糸玉。早速、今夜からでも編み始めようと思いを巡らせながら、フト手触りに嫌な感触。 思い違いであって欲しいと祈りつつ、先端を少し切って指で丸め、マッチで火を点けて見る。 ボゥッと勢いよく燃えた。こりゃ、純毛100%どころか化繊の安物じゃないか。 「まったく貧乏人を騙すなんて、あいつはいい死に方しないよ!」 騙される方が悪いのか、ウカウカしていたら貧乏人だって身包みを剥ぎ取られ兼ねない世相がかつての日本にもあった。確かに貧乏は辛い、だからこそ今の中国の人々が豊かになりたいと必死になっている気持ちが手に取るように分かるのだ。 父親の死後5年の歳月が流れ、弟にも手が掛からなくなったのを潮時に、少女は近くの縫製工場へ働きに出された。16歳になったばかりの見習い女工の給料は月16元。 今とは貨幣価値も当然違うのだろうが、決して高い給料でなかった事は容易に想像がつく。 その給料も半ば強制的に殆どが弟の学資に当てられた。 この貧乏から抜け出すには、どうしても息子に出世もらうしか方法がない。母親はどんな犠牲を払っても高校、いや大学まで出させる執念を見せた。 ところが運に見放された貧乏人は、よくよく苦労するように出来ている。中央権力の泥沼の奪い合いから端を発した文化大革命が日毎激しさを増して、世の中は抜き差しならない大混乱の時代へ突入していた。 知識人である教師は、とんでもなく遠い地方の農村へ追いやられ(下放)されてしまってもう学業どころではなく、革命精神を学ぶ以外の学問は必要なしという空気が支配し始めた。 教育の場は学校だけに止まらず医療の分野にまで波及して、教授以下専門医師は同じ憂き目に遭い、労働再教育と称し辺境へ飛ばされた。 肝心の病院では医師を目指す学生が、訳も分からず治療に当たるといった緊急事態に陥り、社会機能はマヒ同然にまで発展した。 産業の荒廃と衰退は目を覆うばかりで、中・高・大学の卒業生は行き場がない。時の権力者は思い余って、農村での再教育を理由に1600万人以上を辺境へ分配した。 折角、高校を卒業した弟もこの波に飲み込まれた。躊躇しようものなら革命に異を唱えるものとして、一家諸共どんな制裁を受けるやも知れず、母親は途方にくれた。 再教育といっても、いつ帰って来られるかなど誰にも分からず、又その保証もなかったからだ。 一縷の希望だった長男とも無理やり離れ離れにさせられ、この先どうやって生きていけばいいのか。母親は暗澹たる将来に思いを巡らし、悲しみに打ちひしがれた。 一家の落胆と不安はこれだけに止まらなかった。 無慈悲の嵐は涙の乾く間を与えず、猛り狂う奔流となって容赦なく襲い掛かってきた。 社会秩序の混乱は益々激しさを増し、最初、旧地主や富農、民族資本家の摘発に始まったのが、知識人の糾弾排斥に移り、そしてごく普通の一般人にまで飛び火して行く。 昔、家の一部分を貸していたというだけで資本家階級の烙印を押され、果ては先導者の気に入らない人間は、謂れのない理由で自己批判を強いられ財産を没収された。、 一家もその例外ではなかった。亡くなった父親が教師というインテリ職業だったし、その昔僅かな土地を貸していたという話まで穿(ほじく)り返され、吊るし上げの標的にされた。 母親は寝耳に水、そりゃ言掛かりってもんだ!そんな土地見た事もなければ、死んだ亭主から聞いた事もない。 今までどこから見ても正真正銘の貧乏労働者と思っていたから、世情の騒ぎなど私らには無縁と考えていた。それが突然降って湧いたような非難の集中砲火。村の広場に引き摺りだされ、自己批判を迫られたって何を反省してよいのかも分からない。 母親と娘は慟哭した。哭いて許しを乞うた・・・・・・・これはもう弱い者苛めでしかない。 1968年、姑は23歳になっていた。 貴重な青春の大半が、荒れ狂う中国激動の時代とともに過ぎて行った。 服地の埃が舞う工場勤めも7年が経ち、賃金は36元に上がっていたが、相変わらずの貧乏暮らしには変わりがなかった。 母親もこのところ目っきり老け込んだ。まだ四十代半ばなのに、とてもそうは見えない。 生きて行く事に何の希望を見出せない姑だったが、或る日突然春の兆しが巡ってきた。 人生とは分からないもの、どんな人だって生きてさえ居ればその内いい事もある。 縫製工場で黙々と働くお姑さんを、今のお舅さんが見初めた。 持ち前のマメさでせっせと通い詰め、なにくれとなく世話を焼いた。その頃の舅は若き勤勉な労働者として党幹部にも気に入られ、相応のポストにも付いていたから、これは姑にとって周囲にも大いに面子が立つ話で心が浮き立った。 だが母親は反対した。頼りの弟が地方へ下放(農業教育)されている今、娘まで居なくなっては私に死ねといっているようなもの。絶対承服できないと婿候補に会う事すら拒んだ。 幼い頃からお姑さん以上の辛酸を嘗め、世間の荒波に翻弄され続けてきたお舅さん、そのくらいのことで諦め何ぞはしない。 今度はターゲットを母親に絞り、勝手に押し掛けては進んで家事をこなし、お世辞を遣い、貴重な生活物資も抜かりなく届けて、母親の気持ちが雪解けるのを待った。 お舅さんの出身は、上海からバスで4時間ほどのところにある揚州と聞いた。だから生粋の上海人ではない。生い立ちは娘である女房も知らないくらいだから、今でも殆ど謎めいている。 もっとも子供にすれば、親が苦労した昔話などそれ程興味もないし、聞いたとしても女房の方で忘れているのかも知れない。・・・・・・・・私にもそんな記憶がある。 母が生前、大分先に逝ってしまった亭主の苦労話を、ことある毎に語って聞かせた。 生みの親、継母、育ての親と3人の親を持つ不幸な生い立ち、継母の虐待、血の繋がらない姉妹との確執など々、あ〜又始まったとうんざりしたものだ。 「フン、フン」と相槌は打つものの、心そこに在らずで、ただ左耳から右耳へ無感情に通過していった。 語る人が居なくなった今、自分のルーツを知る意味でも、もう少し真剣に聞いて置けばよかったと思うことも時々ある。まぁ、親が元気な内は中々そこまで気が回らないのが普通だから仕方ないが・・・・・・ その昔、余所者には上海居住を認められていなかったが、お舅さんは数奇な運命と流転の果てに上海戸籍を得た。 なんでも農民だった両親を早くに亡くしたようで、親戚中を転々と盥回しにされたらしい。 当時の農村は度重なる飢饉も相まって、農民ですら食べられずに餓死者が相次いだ時代。 両親を亡くした子供が生きて行くには、苛酷過ぎる状況だったことは想像に難くない。 身を寄せていた親戚は凶作の干からびた大地に見切りを付け、幼子だった舅の手を引き物乞いに歩く。 映画にもなったし、最近TVドラマでも放送されたからご存知の方も多いと思うが、松本清張原作の「砂の器」に出てくる流浪する憐れな親子となにやら重なり合う。 12歳の時、遠縁を頼って上海へ出て来る。厄介者とは十分承知しているから、幼いながら生きる為に身を粉にして働いた。人の顔色一つで、今何をしたら一番喜ばれるのか、効果的か、一手も二手も先を読む高等技術はこの頃培われた。 時は移り、時代がお舅さんの味方をした。文化大革命の大号令、これは千載一遇のチャンス。 貧農の生まれと不幸な生い立ちからして、堂々たる筋金入りの貧乏労働者だ。どこを叩いたって富農や資本家の匂いなどする訳がない。 今は生きていく事で精一杯、三度のメシが食べられるのなら、思想や主義主張は革命派だろうと実権派だろうと本音はどっちでも良かった。 勤勉さのお蔭で党幹部の覚え愛でたく、あれよあれよという間に、下級ではあるが国の直轄企業の幹部の端くれにまで伸し上がった。お舅さんにすれば、苦難の末に掴んだこの世の春。 その頃の求婚だから、本人も胸を張って申し込んだ。 やがて誠意が通じたのか姑の母親も折れ、弟が戻るまで生活の面倒を見るという条件で、ようやく首を縦に振った。 この時が幸せの絶頂とすれば、あとは下りしかなく、幸せなどそう長く続くものではない。 この後7年も続く文化大革命の嵐に否応無く飲み込まれて行く事は、若い二人にとってまだ想像も付かなかった・・・・・・ ※一部○○の伏字にしてありますが、これは中国側の検閲に配慮したものです。 6章 私は泣かない!へ続く・・・・・・ |