上海一族の崩壊

3章 子はカスガイか?

  嫁は実家を出て優雅に一人暮らしをしていた。
場所は上海市だが、中心部からバスで小1時間の郊外にある古い低層マンションで、実家とも近い。周りには高層ビルもなく、気の利いた店もない。道路も未舗装のところが多いので、風が吹くと土埃が舞い上がる、ここが同じ上海市内とはとても思えない田舎だ。
ニューヨークや東京の摩天楼を思わせる上海の大発展は、中心部だけに限られているのが良く分かる。
そこは実家の父親が所有するマンションだったが、名義は嫁さんに変わっていた。
価値的には上海一族の住む中心部のマンションとは比べようもないが、住宅事情の悪い上海庶民から見れば羨ましい限りだ。
多分、父親が生前に財産分与を済ませたのだろう。中国の贈与税が幾ら取られるか知らないが、恐らくコネと袖の下で上手くやったか、名義だけ変えて涼しい顔をしているか、どっちかに違いない。
上海庶民の納税意識はそれほど高くない。税務局に見つかれば仕方なく払うが、何も言って来なければ儲かったと惚けてしまう輩が多いと聞いた。
勿論、巨額な脱税では死刑にもなりかねないが、叩けば埃が出る程度では罪の意識はあくまでも薄い。

息子は5歳に成長していた。このくらいになれば、もう何でも分かるし承知している。
一番母親の愛情が必要な時期、自分が悪い訳でもないのに怒鳴られ叩かれ通しだったから、母が突然居なくなっても、今までそれほど恋しがらなかった。
寧ろ萎縮して子供らしさが失われていた当時より、生き生きとして笑顔にも影がなくなった。
お爺ちゃんもお婆ちゃんも口喧しいが、絶対に手は上げないから、最近は親譲りの我侭が目立ち始めている。お舅姑さんも、そこだけは似て欲しくないと願っても、やっぱり親子は親子。無情にも運命の糸は受け継がれてしまったようだ。


「どうだ、媽々(母)のところへ泊まりに行くか?」

義弟は息子に突然切り出した。お舅姑さんも反対はしていない。
特にお姑さんはこの2年間大変だった。
たとえ1日でも2日でも息抜きしたい筈だ。
幼稚園の送り迎えに制限されている食事の心配。追い掛け回して喘息の薬を飲ませ、咳き込みが酷くなるから風邪一つ引かせられない。
その上ひとたび入院となれば、泊り込みでの付き添い。
勿論、男連も出来ることはそれぞれ引き受けていたが、中々当てには出来ない。
義弟は賓館(ホテル)の警備員という仕事柄、日勤と夜勤が交互で不規則な勤務が多い。
お舅さんは生来のB型人間。昔は街へ出たらトイレはどこも有料、財布にこのトイレ代(2角=3円)さえあれば出掛けてしまうほど、家にはジッとしていられない。
今でも気が付くと居なくなっている事がしょっちゅうだ。
金がないから、ただ街をブラブラして知った顔に出会えば気軽に話し込んだり、縁台将棋ならぬ路上麻雀やカードに興じる人達をを見付ければ、時間を忘れて覗き見ている。
お舅さんにすれば、それが唯一の息抜きになっているのだから強くは言えない。
やっと帰ってきたと思えば、今度はマンション夜間管理人のアルバイトが待っている。
元々大人しいお姑さんだから愚痴は言わないが、負担は一向に減らず、かなり疲れている。

勘の良い息子はなんと返事していいか戸惑った。本心は行きたくないのだろうが、父親は暗にそうして欲しいと言っているようだし、爺婆も今回は自分の味方をしてくれそうもない。
幼子に大人の顔色を窺うような気遣いをさせるのは不憫だとも言えるが、反面、蝶よ花よと甘やかされて育てられた子供より、少なくも打たれ強さと自立心は養われる。
是非とも逆境を撥ね返し、運命を逆手にとって、逞しく人生を切り開いて行ってもらいたいものだ。

「・・・・・・・うん、でも媽々に打(ぶ)たないでって言ってね」

義弟も嫁と会うのは久し振り。粧(めか)しこんで息子の手を引き、土曜の朝出掛けていった。
明日日曜の夕方には、又引き取りに行かなければならない。

久し振りなのでテレがあったのか、まだ気まずい雰囲気だったのか、義弟は長居をせず帰ってきた。だが妙にウキウキしている。女房がこっそり隅で問いただすと、にやけた顔で

「綺麗になった・・・・」

まったく救われない奴だ!もっと毅然としろ、毅然と!・・・・・だからナメられるんだ!
別居中でも親は親、以前医者代ピンチの時に緊急負担を頼んだが、「私は子供の学資保険を払っている!」と撥ね付けられた。でもよく考えてみると、これは貯金と同じで満期になれば利子共戻ってくるのだから、負担しているとは言えない。

長続きのしないアルバイト代と、実家から多少の援助もあって、悠悠自適に暮らしていた嫁さん。着ている服も小綺麗になり、髪も流行りの淡い茶に染めた。念願だった化粧品も買ってみた。メーク術は見様見真似だが、それでも以前に比べれば綺麗になった。
夫婦で暮らしている時は、年中金!金!で追い捲られ、とてもそんな余裕はなかった。
まだ20代も半ばだから、華やかな上海の都心に住んでいれば空しくなる事もあったろう。
そこで件の大決断!あれもこれも不満だった事を一つ一つ解消してはみたものの、心は何故か満たされない。そりゃそうだろう、それで満足された日にゃ、人間を辞めた方がイイ。
2年も経って急に仏心に目覚めた。憎くて仕方がなかった子供も逆に恋しくなった。自分の将来も不安定極まりないと感じ始めた。これで良いのか?
よくよく先の見えない義弟は、残念ながらそこまで推し量ることが出来ず、すっかり目先の色香に惑わされて、ただ惚れ直した思いを抱くに留まった。

しかし女房の見解は真っ向から違っている。
弟の嫁さんを快く思わないのには、女房なりの個人的理由があった。
それは私らのマンション内装時、お舅さんの所で間借りしていた折の事。
僅か40日間だったが、当初は嫁さんとも特別の諍いもなく、和気藹々と共に寝起きしていた。
時には夜更けまで一緒に麻雀など興じたりして、割と仲も良かった。
年末には工事もほぼ完了したので、翌年の春の新入居を楽しみに帰国の準備を始める。
女房はどうせ2〜3ヶ月後には又やって来るのだからと、荷物を極力少なくして必要ない物は置いていくことにした。・・・・・・・その中に一番のお気に入りで、東京で買ったばかりの靴もあった。

翌年、約束通り桜の咲き始めた頃に心弾ませてやって来た。
何日かして、お舅さんの所に預けてある荷物を取りに行く。
出入り口にハテ?何処かで見掛けたような靴・・・・・・・気が付くのにそれほど時間は掛からなかった。絶対間違えたなんて言わせない!元々持っていないのに間違える筈がない。
嫁さんはファミリーの気安さから、ちょっと借りたのかも知れないが、ここまで履き込んではちょっとでは済まない。見るからに高そうな靴、嫁さんにはとても買えそうもない。上海人は誰も見栄っ張りだから、アルバイト先に履いて行って同僚に自慢したかったのだろう。
見れば方々傷だらけ、フツフツと怒りが込み上げてくる女房。「もう、あれいらない・・・・・・」
特に嫁さんには詰問しなかったが、女の恨みはしつこくて根深い。以来すっかりこの嫁さんが嫌いになってしまった。

その先入観がある所為か、女房は私情をタップリ挟んだ大胆とも思える意見を弟に話す。

「騙されちゃいけないョ。少し綺麗にして次の男を捜していたんじゃないの?」

そう言われると、義弟もドキッ!とする思いが胸を過る。
何を隠そう、離婚は必至と見て、実はそれとなく物色して後釜を探したが、誰にも相手にされず、けんもほろろで掠りもしなかった。
日本ではバツイチは一つの勲章みたいに様変わりして、ちっとも恥ずかしい事ではなくなったが、中国では子持ちの再婚は非常に難しい。
ひとつには一人っ子政策の為、再婚相手との子作りは出来ないという現実がある。中国の事だから、或る日突然法律が変わるかも知れないが、今のところ従わざるを得ない。
子供の親権を放棄した方はこの限りではないが、やはり結婚経験がある事は敬遠されている。
それでも財産があるとか、エリートとして将来見込みがあるのなら別だが、義弟にはそのどちらも無いのだから、相手からすれば検討の余地すらもない。
それは嫁さんとて同じ事。意地で子供を引き取ったら、一生シングルマザーを通さなければならない。それではまだ若い身空であまりにも寂しい。
親権放棄をして独り身になっても、遊んでくれる相手はいるだろうが、結婚してくれそうな相手に巡り合うのは難しそう。たとえ居たとしても、こちらの条件を考えたら、義弟よりレベルが落ちる可能性だってある。それならまだヨリを戻した方が得策か?薄っぺらな三段論法から自然とそこに行き着いた。

かくて愛と反省のない歩み寄りが、双方勝手な打算と思惑を交えて、静かに幕をあけた。
その狭間で右に左と翻弄されるお舅姑さんも大変だが、それにもまして子供の方がなんとも哀れである。
意に染まない1泊の母親訪問を果たした幼い孫が帰ってきた。
緊張の連続だったのか、子供ながら若干疲れたようにも見える。
手の掛かる孫の世話から開放されて、束の間ホッとしていたお姑さんもやはり心配だったのだろう、優しく迎えながらすぐに声を掛けた。

「どうだった?楽しかったかい」
「・・・・・・・・・3回ぶたれた」

ウ〜ン、子供は正直だ。それにしても若い母親に反省の色が見えない。
性格とは変えようがないのか?世の中これだけ人間が多いのだから、そりゃ子供の嫌いなのも居るだろうが、これではあまりに救われない。
まぁ、私も人の事をとやかく言える程、優しく理解のある人間ではなかったから、過去の自分を責められているようで、心の痛みが甦ってくる気がする。
特に我々の世代は仕事の忙しさに感けて、子供と正面から対峙することを避けてきた。
その間も子供の成長は待ってくれない。これではイカン!と気が付いた時にはもう大体遅い。
すでに付け焼刃の愛情など受け付けてくれない歳になっていて、お定まりの断絶が定着してしまう。
幼少時に受ける愛情は大事だ。人生が始まったばかりの時期にポッカリ空白があると、以後の長い一生に大きな影響と暗い影を落とす事になる。
子育てを逃げた責任のツケは必ず巡ってくる。いつかは代償を払わなければならない。
その時に泣き言を繰ったり、ウチの子供は冷たいなどと言ってはいけない。
私もその報いを今甘んじて受けている。これも子供に世間並みの愛情がもてなかったのだから仕方がない。今更親孝行してもらいたいなどと図々しい事は思っていないが、せめて近況ぐらい知らせてくれても罰は当たらないだろうに、ほとんど葉書1枚、電話1本ない。
普通なら世の無常感にハラハラと涙のひとつも流すところなのだろうが、私も強情というか、ここまで来てまだ無関心なのか、大して寂しいと思わないのだから、よくよく親として失格に出来ているようだ。
こうなると子供が居る事すら、遠い過去の陽炎のようにぼやけたものになってくる。
・・・・・・・まったく情けない話だ。
家系の遺伝か、いじけた性格の所為か、これで良いとは思わなかったが、私には直そうにも修正の方向すら見当が付かなかった。

 親の愛情をあまり受ける事なく育った子供は、大人になって今度は子供を育てる立場になっても、正直、愛情の注ぎ方が分からないのではあるまいか?
私の場合、今更それを言っても詮無い話だが、父母の愛情を確かなものとして受けた記憶が殆どない。生活は礼儀に名を借りたいつも余所々(よそよそ)しいものであり、子供ながら甘えが許されない家庭は楽しい筈がなく、それに貧乏が一層追い討ちを掛けた。
事業の失敗や失職を繰り返した父親には、子供を顧みる余裕がなかったのだろう。
中学を卒業する頃は貧乏のどん底。高校に行ける状態かどうかは聞かないでも分かる歳だ。

「叔父さんの所なら、もっと美味しいものをお腹一杯食べられるョ」

そう母親が言った。食べ物に釣られた訳ではないが、私は黙って就職の道を選んだ。
昭和39年といえば、東京オリンピックの年。日本も豊かさに向けて邁進し始めた頃だ。
世の中の活況に逆行するような口減らしの就職に、言いようのないの寂しさが込み上げた。
出発する前夜、父親が「体に気をつけろ・・・・・」と呟くように一言いった。
その目にはキラリと光るものがあり、(不甲斐ない父親ですまない)と言っているようだった。
父親との交流は少なかったが、後年その面影を偲ぶ時には、決まってあの日の横顔が浮かんでくる。

建築見習は想像したより、遥かに過酷で厳しいものだった。
まだ徒弟制度が幅を利かせていた時代だったから、叔父さんも鬼の親方に代わった。
色気づく16〜17歳で、10本の指に伴創膏をしない指は無かったほどだ。
労働基準法も最低賃金も関係なく、朝6時から夜10時まで仕事と薪割りなどの家事もこなした。
休日は月2日、それも殆ど道具直しなどに費やされた。給料は見習だから小遣いとして月3000円、床屋に行って映画でも見ればなくなってしまう金額だった。
確かに辛かったが、何ものにも負けない根性は培われた。
そのお蔭で今日の幸せがあると思えば、恨む筋合いじゃないが、当時はそこまで考えられず、苦労する自分の運命を嘆いていたのを思い出す。
自分の子供には、こんな苦労はさせたくなかったのは事実だが、これが裏返しとなって甘やかす結果になったのか私にも分からない。どっちにしても、今となっては取り返しがつかない。
そこまで分かっているのなら、今からでも断絶解消に向けて努力すれば良いのだが、これが中々その気にならない。今更というテレもあるだろうが、気持ちの何処かでそれほど重要と考えていない節もある。よくよく救われない男も世間にはいるものだ。
 
 義弟の場合はこの苦労が足らない。金も欲しいし楽もしたいという根性がいけない。
お舅さんも若い頃はそれなりに厳しかったと聞いている。それなのに何でこんな軟弱男に育ってしまったのだろう。私と違い、親に散々助けてもらい愛情だって人一倍受けてきた筈だ。
結局、愛情と甘やかしは紙一重という事か・・・・・・・この先、父子でそれを悔やむ日が来るとしたら、子供をまともな人間に育てる事の難しさを痛感してしまう。

私もこのまま人生の宿題が分からないまま、片肺飛行のように今生を送り、そして閉じるのかと思うとやりきれない空しさを感じていた。だが人生とは下駄を履くまで分からない。
それを教えてくれたのが、何を隠そうお舅さん率いる上海一族である。
まるで遠い過去に遡って、放置していた大きな穴を埋め戻して行くような心地良さ。
絡み合った心の闇は自然に解けて行き、眩い光は暗かった過去の隅々にまで温かさを伝える。
求めて止まなかった愛の渇望は、砂漠に撒いた水のように止めど無く吸収していった。
親に甘えられる事の喜びと大切さ、家族愛、助け合い、どれを取っても私には欠けていたもので、その答えをとうとう探し当てたような感激を得た。

このお舅さんなら、どんな事があっても助けてくれる。このお姑さんなら、どんな事があっても庇ってくれる。この女房なら、どんな事があっても支えてくれ・・・・・そうだ。
お舅姑さんとは大して違わない歳だから、本当に助けてもらおうとは思わないが、心の拠り所となる安心感は何物にも代え難い。
女房は家事なんかより余程大事な、これから新しく生きていく方向と希望も教えてくれた。
我々団塊世代も間もなく定年を迎える。その後に陥り易い、「俺の人生は一体何だったんだ!」という無常観も、これで乗り越えられる。この先もなんとか不祥な事を考えず生きて行けそうだ。
人間にとって一番幸福な事は、金や物ではない。信頼の絆で結ばれた人達が傍に居て、そして共に生きて行けることだ。これが分かっただけでも、私の人生は価値があったと思える。
縁とは実に不思議なもの。最後まで分からなければ、間違いなく悔いが残ったろう、私にとっての人生の宿題。その答えを教えてくれる為に、女房と巡り合ったとさえ思えてくる。
私は人生の終盤に差し掛かって、ヒョンな事から金では買えない宝物を手に入れたのだ。
神様の粋な計らいに感謝せずにはいられない・・・・・・・

4章 走れ!激動の中国へ続く・・・・・


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