上海の楽しい人々篇

4.上海で産むぞ!

                                                       2004年5月
 私の友人に、同じ日中国際結婚をしたご夫婦がいる。
年齢差はほぼ私達と同じだが、結構仲良く暮らしている。奥さんがウチの女房と同じ上海人なので、お互い何かと相談もし易かったのか、今では奥さん同士の方が濃密な友人関係にある。
このご夫婦に幸か不幸か?子供が出来た。
旦那さんは表面上素直に喜んでいるが、日本の先行き不安な混沌とした時代に、更なる責任が重く圧し掛かってきたのを痛感している。
それに私より若干若いが、どう見ても孫に見える年代だから、多少気恥ずかしい面もあったろう。

ご夫婦とも再婚組で、旦那さんには先妻との間に子供がいたが、奥さんにすれば初めての子供。
だが知人も少ない日本での出産に不安は隠せない。旦那さんの親も高齢のうえ地方にいるので頼りには出来ないし、自分の親を上海から呼び寄せることも考えたが、日本は物価が高い。
長期滞在を考えるとその費用も侮れないし、第一狭い住宅事情にあって難しいのは目に見えている。紆余曲折、考えあぐねた結果、上海で産む事にした。

そうと決まれば善は急げ!出産予定日の3ヶ月も前に上海の実家へ里帰りした。
そろそろ目立つようになったお腹を摩りながら、勇躍上海に乗り込んで来た。
旦那さんは普通のサラリーマン、日本の厳しい経済状況では私事で仕事は休み難い。それで少々早いと思ったが正月休みを利用して、大切な奥さんを労わるように付き添ってきた。
航空運賃も一番高い時期なので、奥さんもこれから出産に向けての出費を考えると気が重かったが、中国でのお産なら費用も東京より安いだろうし、きっとカバー出来る筈とそう踏んだ。
上海の冬は東京より厳しいが、出産の頃は花も綻(ほころ)ぶ春先の候、季節としてはバッチリだ。親元で、気兼ねせずのんびりと暮らせば胎教にもイイ。きっとお産も軽くて済み、丈夫な子が産めるだろうと、奥さんは心密かに幸せを噛み締めた。

親のマンションには姉夫婦が一緒に住んでいる。
無理に居候するのは気が引けるし、痩せても枯れても、みんなに金持ちと思われている日本人と結婚している面子もある。
内心では苦々しく思いながらも、両親のマンション近くに部屋を借りた。1ヶ月1500元の出費だ。円に直せば2万円足らずだが、こちらの一般庶民の給料が殆ど飛んでいく金額に相当する。
これからの長期滞在を考えると、やはり抑えられる所は抑えたい。

日増しに迫り出してくる大きなお腹に閉口しながらも、平安な日々が続いた。
老いた母が身の回りの世話をしてくれるので、奥さんは出産のことだけに専念できた。親とは実に有難いものである。
東京だったら、こうはいかなかっただろう。しばらく迷ったが、よい選択をしたと改めて思った。
上海の産婦人科病院の診察で、帝王切開出産の方が安全だと言われた。
大手術じゃないにしてもお腹を切るとなれば心配は尽きない。もしやのことを考えて比較的設備の整った病院に鞍替えした。当然のように料金も高くなるが、これも安心料だと思えば仕方ない。

「先生、なるべく傷は小さくお願いします」
「大丈夫、大丈夫、私に任せなさい」
「それと切るのは出来るだけ下の方にしてくださいね。ビキニが着られなくなっちゃうから・・・・・」

帝王切開出産で、ビキニもないもんだが、女の気持ちとすれば切実な問題だ。
奥さんもタダで色々な注文をつけたり、お願いする訳にも行かず、その場に応じて、時折袖の下を掴ませた。中国では今でも日常茶飯事行われていることだ。
病院に入院したが、満室を理由に移動式ベッドで廊下に寝かされたなんて話はよく聞く。
病人の家族が「これじゃあんまりだ!」と、工面して然るべき病院関係者に袖の下を持っていったら、即、病室に入れたというから徹底している。
いまだに役人幹部の上から下まで、公安からこうして病院に至るまで、魚心あれば水心の世界が横行しているのが現状だ。
政府もモラルの是正に向かって躍起になっているが、庶民の生活にまで入り込んで慣例となっているものは、中々一朝一夕では改まりそうもない。

結局、無事玉のような男の子を出産したが、費用は15000元(約20万円)も掛かった。
お姑さんの話では庶民レベルの病院で、普通分娩なら2500元、帝王切開なら5000元くらいと言っていたから、ほぼ3倍の費用が掛かったことになる。
まぁ、見栄を張って外国人専用病院にでも行っていたら、普通お産でも40000元、切ったら60000元も取られるというから、それを考えたら安かったには違いない。
だがこれだけではない。これは病院代だけで、他に担当医師や看護婦への心付けがトータル7000元(約9万円)にもなった。
これは黙って聞いていた女房もちょっと首を傾げたくらいで、上海人は何でも話をオーバーに言いたがる癖があるから、一概に鵜呑みは出来ない。
いずれにしても本人の自主申告通りとすれば、日本で出産したのと変わらない金額が掛かってしまったことになる。
傷口もあれだけ頼んだ割には、思い切り大きく切られたようにも思えるし、中国でなら安く上がるとの思惑も見事に外れて、嬉しさも中くらいで退院した。

中国では、母親は出産後1ヶ月は何もせず療養するのが普通だ。美味しいものを食べて、これ体力の回復に努める。
当初、家事一切は実母が泊り込んでしてくれていたので問題なかったが、なんせ70歳を超えた老齢の身、日を追う毎に息切れがしてきた。
そこで阿姨(アーイー)さんを雇おうという事になった。
日本式に言えば、お手伝いさんか家政婦ってところだろう。

 阿姨(アーイー)さんの語源は「叔母さん」という意味で、差し詰め、日本で知らない中年女性を総称して「オバサン」と呼ぶのと同じだ。
上海に現在どのくらい阿姨さんがいるか実数は掴み難いが、政府は好景気に比例してこれから約7万人の阿姨さんが不足すると見ている。
この数字から見ても、上海には経済的に余裕を持った家庭が、徐々に増えてきていることが実感できる。
阿姨さんは、今でも地方からの出稼ぎ者が圧倒的に多い。
現金収入の少ない地方では埒が明かず、豊かな都会へ都会へと草木がなびく様に流れては来ているが、質の低下は否めない。掃除も下手、料理を作らせれば田舎料理そのものだし、洗濯機の扱い方も知らないのが中にはいるという話だ。
それでかなり細かいランク付けがされている。トップクラスは3000元も取るらしいが、それなりの必須条件が付く。日本語なり英語が多少話せるとか、洋式料理を作れるとかの特技が必要だ。
まだ若ければ違う収入の道もあるだろうが、特に技術も資格もない中年女性には、阿姨さんとして住み込んで稼ぐのが手っ取り早い。

今も昔も阿姨さんの地位は低い。それでも現在は大分改善されたようである。昔は奴隷の如く休む暇など与えられず、顎でコキ使われたらしい。
日本でも昔は地方の寒村貧村から、裕福な商家などに女中として年季奉公した過去がある。
その代表的なのがTVドラマ「おしん}で、中国放映でも大反響を巻き起こした。
よくよく日本も中国も貧しかった時代の事情がよく似ている所為か、国境を越えて共感を呼んだのだろう。
奉公は貧乏な家にとって娘の嫁入り修行も兼ねていて、炊事・裁縫など家事全般をそこで習得した。家電製品など何もない時代だから、すべて人の手に頼る家事は現代の何倍も辛かったに違いない。加えて主人の言う事は絶対で、それに逆らうのは暇を出されることを意味した。
安い賃金は1年分をすでに前借として貧乏な親が持って行っているから、おめおめと実家に帰ることも出来ず、泣く泣く若い身空で辛い労働に耐えた。
そんな話を亡くなった母親からよく聞かされた。

この奥さんの実家もそれほど裕福でなかったから、今まで阿姨さんを使ったことはない。
ただ世間の風聞として、以前に聞いた阿夷さんとはそんなモンという間違った認識があった。
長く留守している間に上海も随分と変わった。
この奥さんは、それを知らなかったのが運命の分かれ道。この事が以後の騒動を巻き起こす引き金になるとは、まだ想像すらしていなかった。



 阿姨さんの賃金相場にも色々ある。
住み込んで朝から晩までの専属もあれば、1時間単位で週何回という契約もある。
中国人家庭への住み込みは月600元(8000円)から1000元(13000円)が普通で、どの辺で手を打つかが問題になってくる。
実際に雇って様子を見ない事には、その人の器量技量が分からないからだ。
雇う時は簡単だが、外れを引いて辞めさせるとなると揉めるケースが多い欠点がある。
その点、時間で家事を負担してもらう方が、気に入らなくて辞めさせる場合も揉める事は少ない。
こちらは1時間5元〜10元が相場だろう。上海市が決めた阿姨さんの最低賃金は1時間4元である。人間一人の労働が1時間拘束して65円〜130円では、如何にも安過ぎると思わざるを得ない。
かといって相場以上の賃金を払う義理もない訳で、今現実に上海で暮らしている以上、出来るだけ安く契約したいのが人情でもある。
したがって交渉力がモノを言うが、旦那が日本人などと感づかれれば、相手もそう安い賃金では納得しない。
奥さんは極力悟られまいと慎重に面接した。一見して田舎のオバサン的風貌と分かるのが特徴で、色浅黒く肩幅が広い頑丈そうな中年女性だった。
希望賃金は家事一般なら、住み込み食事付きで月1000元。更に赤子の面倒も見るなら、その分の割り増し料金が1000元。都合2000元と相場の上限いっぱいを吹っかけられた。
阿姨紹介所の話では、赤子の世話まで出来る阿姨さんは優秀な部類で決して損はないという事だったから、若干高いとは思いつつも雇用する事にした。
(これでお母さんにも休んでもらえるし、私も他人にお金を払ってやってもらう方が気が楽だわ)

当初、大枚2000元も払っているのだから、休ませては損とばかり矢継ぎ早に用を言い付けた。

「ちょっと〜、洗濯を先にやってくれない?赤ちゃんの着替えがもうないのョ」
「私は今茶碗を洗っているの!これが終わったら掃除をやって、その後にやるわョ」
「・・・・・・・・・・(やるわョ〜!誰に向かって言っているんだぁ)」

奥さんも日本生活が長い。下手に相手の都合を聞き入れてしまった。
ここでバシッと反論しなかったのが運の尽き、以後の主導権を握られてしまう結果となった。

「これは手洗いしてね」

阿姨さんを雇った以上、手間隙掛かる労働も給料の内だ。
中国の洗濯機は性能が悪いから、あまり汚れが落ちないと思い込んでいるので、丁寧な手洗いを指示した。
さすがに給料を貰っている以上、阿姨さんも拒否は出来ない。黙って従ったのはいいが、瞬く間に終えてしまった。手抜き以外の何物でもない。
素知らぬ顔で注意深く観察していると、自分の洗濯物はふんだんに水を使い、これが手洗いの見本というほど丁寧に洗っているのだから頭にくる。

入浴だって中国は日本のように湯船にお湯を張ることは少ない。
もっぱらシャワーが主流だ。だからチャッチャッと済ますのが普通だが、この阿姨さん、入浴時間が偉く長い。
地方の自分のウチじゃ、シャワーだって満足に入れなかったろうに、お湯も他人のモノだと遠慮がない。
体がふやけてしまうほど、心ゆくまでシャワーを楽しんでいる。

生まれ立ての赤子には、2〜3時間置きにミルクを飲ませなければならない。
真夜中も待った無しだから、赤子の世話代を払っている以上、当然阿姨さんに任せた。
深夜ともなれば物音一つもよく響く。我が子がむずかる声だってよく聞こえる。
すぐ泣き声が収まれば、阿姨さんが対応したのだと安心するが、しばらく泣き止まないと母親として心配になって来る。それで時折、そっと隣の阿姨部屋を覗きに行く。
頼みの阿姨さんはスヤスヤと熟睡中。赤子は傍らの育児ベッドで、腹を空かせた泣き声サイン。
人の気配にガバッと跳ね起きた阿夷さん、盛んに言い訳をしてミルクを作りに部屋を出て行った。
翌朝、阿姨さんから申し入れがあった。

「私も昼間の家事と赤ちゃんの面倒で疲れている。夜もキチンと時間通りミルクを飲ませているから、いちいち部屋には来ないで欲しい」

奥さんはとうとう子供まで取られた気がした。自分の家にあって好きな時にわが子の顔が見られないなんて、そんな馬鹿な話があるもんか!

この阿姨さん、家事で疲れるといっても一日中動き回っている訳ではない。相手は母子とそのおばあちゃんのたった3人だけだ。
一通りの決まった家事を手早くこなしてしまえば、休み時間だって一日の内いくらもある。
外にも出られない鬱積から、奥さんがリビングのソファで気だるそうにTVを見ていると、視界ギリギリに阿姨さんが入ってくる。お客じゃないんだから、さすがに横には座らないが、離れた食卓の椅子にもたれながら同じTVを横目で見ている。
休んじゃいけないとは言わないが、休み時間も高い給料の内かと思うと腹が立ってくる。
さりとて言い付ける用事も咄嗟に思い浮かばず、黙って看過していたが、思わずフツフツと滾(たぎ)る不満が口を突いて出た。

「そうして座って休んでいる時間もあるんだから、来月から1500元にしてくれない?」

どこの国の女性も中年になると厚かましくなるのか?決して物怖じしない。
阿姨さん慌てず騒がず、静かに負けじの反論を展開した。

「私はまだ45歳で動作も機敏だ。50歳になったらまけてもいい」

ああ言えばこう言うと、悉く出鼻を挫かれた奥さんは腹の虫が納まらない。
何とか仇を取れないものかと思案した挙句、ある時パッとその方法が閃いた。

5.阿姨(アーイー)決戦!へ続く・・・・・


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